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専門家の支援は? ・・・当事者性の意味 

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先日、遠来の知人がふらりとセンターを訪れてくださいました。その方は虐待やDVなどの被害者で、被害者支援の矛盾を身をもって体験しているだけではなくて、ご自身の親子関係も、児相の理不尽な対応で随分問題を抱え込まされておられます。

行政の相談やシェルターでのDV支援、児相の児童保護、それらに関わる医療や司法の癒着など、支援をめぐる当事者に対する理不尽な対応がいかに当事者の病理を深め、問題解決を困難にしているか、私が上梓した「DVは なおる」の共著者の齋藤さんや私が書いてることにもリンクすることです。

その方としばらく話してて、専門家、特に現場を知らない専門家、当事者を上から目線でコントールしようとする専門家には、問題解決は無理だよねってことで盛り上がりました。

専門家は知識や援助論などを学んでいて、それぞれが得意とする援助論なり援助スキルを持っています。それは、学びの権力構造の中で得られるものだから、その構造から外れることは、その業界からの利益を失うことでもあり、保身のためには自らの理論やスキルの範囲内で支援しその有効性を出さなくてはなりません。

となるとその理論やスキルに有効性がない場合は、援助者自身の非力に至るべきところを当事者の病理、家族、経済などの問題に転嫁し、自らは他人事として当事者との関わりを薄くするのも当然でしょう。

この辺りの問題を回避するために、ナラティブアプローチでは、当事者との物語の共有ということだったり、リフレクティングチームによる、当事者と援助者の立場の入れ替えなど、権力構造を排する方法論を用いています。よく知らないけれどオープンダイアローグもおそらく同じ文脈でセラピーを位置付けていることでしょう。

ナラティブアプローチもオープンダイアローグも当事者として支援してきた私には当たり前のことで、目新しいものとは感じないけれど、日本の権威・権力志向の文化になじんでる専門家には実践するのは大変なのではないかと憂慮します。

というのは、援助者、セラピストが生きてる世界と、病んでる渦中の当事者が生きてる世界の差別権力構造があり、それぞれがその生活の場で何を語り、何を考えているかが、セラピストとクライアントの対話の中で問題としてあぶり出されてくるからです。

セラピストの熱意やスキルがどうであれ、クライアントがクライアントに至る社会の差別権力構造の問題とセラピストがどう関わっているか、クライアントの語りは鋭く突いてきます。この問題に向き合えてないと、セラピストは防衛が働くし、自由で対等な対話は難しくなります。

そのあたりの問題を超える援助が「メンズセラピー」であって、当事者の視点で当事者自身が当事者を支援していくことを前提としています。専門家といえど、この構造に依存する当事者でしかないのですから。専門家が自身の当事者性を受け入れクライアントと、同じ地平を生きるかどうか・・・。

差別的な社会の中で、差別抑圧の苦悩を体験するだけではなく、その構造の中で生き延び、回復し、抑圧構造に加担しない生き方を指向する生き方が、渦中の当事者に対する大きな希望やモデルになりうるし、当事者同士の語りが、病理社会に対するアンチテーゼとして社会を非病理化する力を当事者に与えます。私が言ってきた病理社会のシステム論で言うところの「ポジティブ還元」です。

けれど、この援助論について、私以外日本では誰も語ってはいないようだし、ましてや実践している人はいないでしょう。世界的に見ても、オープンダイアローグやナラティブは語られ、理論化されてるみたいだけれど、当事者主義と社会システム論をセラピーに取り入れてるって人はあまりいないようだし・・多分私が世界で唯一の最先端的なセラピーをやってるってことか・・・と妄想する私。

もちろん、私一人では世界は変えられないどころか、多くの困難を抱える当事者に有効なセラピーを提供することもできません。だからメンズセラピーの有り様を伝えるべく日本男性会議を十年間続けてきたたわけだけれど。

専門家指向、権力指向の学者センセや援助者は、この会議に関わることはありません。少ない数の当事者でちまちま続けてきました。先日もひと・まち交流館京都で「第十回日本男性会議」を開いたけれど、やはり現場を知らない、研究者指向のセンセは話にならないな、というのが実感。

パネリストに「男性権力の神話」を訳された、マスキュリニストを称する男性に登壇いただくことにしたけれど、直前になって、会議のサブタイトルが気に入らないから変更しろとか言ってくるし、一時間ほど遅れてのご登場だし・・・・何を考えておられるのやら???

その方は男性差別の存在を啓発するという意味でアラン・ファレルの著書を邦訳された(訳の良し悪しはおいといて)ことは画期的だし(日本の男性学研究者が避けて通ってる)その意味で敬意を表するのは事実。それがあって男性会議に三年連続でご登壇いただきました。

その方は、誰から何を聞いたか知らないけれど、最近は私をフェミニストに寄与するメイルフェミニストだと断定し、彼のブログに悪し様に私のことを批判してました。会議後の報告でも、私に対しての罵詈雑言の羅列です。何を血迷ったか。

会議でもその方と私、あるいは参加者との間でホットな議論が交わされ、私の「すべての差別を否定する立場をとりつつ現場で男女問わず、加害被害を問わず、回復への支援を提供する援助者としてのスタンス」と、世間にある男性差別の啓発のための発言だけをしていく研究者(?)としてのその方のスタンスの違いがはっきり、くっきりと見えて、面白い議論になりました。

私は当事者の視点で考えますし、自らの男性性と抑圧される内なる女性性、そしてその被害者性も加害者性も自らの問題として向き合い、様々な自身の囚われや社会の中にある差別抑圧構造に対しての異議申し立てをしていきたいと考えます。

けれど、その方だけではないけれど、メイルフェミニストに成り下がった男性学研究者たちはもちろん、女性差別を否定するフェミニストも、実は権力指向で抑圧構造に加担しています。

この辺りを説明するとすれば・・・・性差別を女性差別としてのみ認識するか、男性差別としてのみ認識するかは別として、性差別に対する感受性をジェンダーセンシティブとして捉え、権力構造に対する感受性をパワーセンシティブとして捉えるとします。

ジェンダーセンシティブ指数を縦軸に取り、パワーセンシティブ指数を横軸に取ると、その人の差別意識がどのようなものか理解しやすくなります。

女性当事者を馬鹿扱いするフェミ学者の女も、加害男性は刑務所に入れたらいいんだと簡単に言ってくれるマスキュリニストも、当事者からみたら結局知識や権威権力に依存する差別主義者でしかありません。

対話や議論の中で、自分の体験や思いについて自信を持って語ることのできない専門家は所詮他人事、現場を知らないで、自説に固執して人に押し付け、受け入れないと誹謗中傷するのは、女であれ男であれ、援助者としては失格、研究者としても無能でしょう。

日本のジェンダーや福祉に関する研究者や援助者のなかで、当事者性を理解して仕事できる人って・・・いないよねえ・・残念なことだけれど。そうそう、冒頭で語った先日センターを訪ねてくださった方、ばりばりの当事者だけれど、私と違って研究熱心、ああいった方がアカデミズムの中で力つけて発信してくれたらいいのに・・とりあえず、そんな方が潰されないように祈ることにしますかねえ・・

私はアカデミズムに食い込む暇も金も能力もないし、けれどそれなりに必要な知識はアカデミズム以外から得られてるしね。私自身はノープロブレム・・・

会場になったお部屋はかなり大きくて。ここに二十名弱の参加者が・・

分科会ワークショップではいつもの語りに・・・

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