支援・援助論

情けは人のためならず・・・川崎事件「一人で死ね」に思うこと

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情けは人のためならず・・・これを「情けは人のためにならない」と理解する人も多いのかなあ、なんて思う私。もともとは、「情けは人のためではなくて自分のためだよ」との本来の意味が理解できてない人が多いのではないかと。

親鸞の説く「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」も理解されないんだろうなあ。キリストの言う「汝罪人は救われたり」「罪なき者石もて打て」というのもねぇ。

世間の多くの人は「俺は罪人ではないし、善行を重ねてる、そんな俺が救われるのは当たり前だけれど、罪人のこいつが救われるのはおかしいだろっ、罪人は処罰されたらいいんだ」との考えで判断し、言動に表します。

今、川崎の児童殺傷事件に関して、「死ぬなら一人で死ね」発言で世間では賛否が喧しいけれど、たいていが感情論になってて、無意味な論争に成り果ててるんじゃないかな。

その言葉をよしとする人もそうでない人も、人殺しをいいことと考えてるわけではないだろうし、痛ましい事件が起こらないでほしい、という思いは同じと思うけれど、なぜ同じ思いを持つ者が、論争し合うのか・・そのあたりに目を向けてほしいものだわ。相手の言葉に刺激されて、感情的になり、相手を批判し合ってもなんも産み出さないもんなあ。

そもそも、今回の事件はなぜ起こったのか、それによって、私たちの心がどう動いたのか、冷静に客観的に検証することなしに、いいの悪いのと、事件加害者、被害者、関係者の思いや行動を勝手に妄想して語っても、ほとんど、本来の目的(事件の防止)には与しないし、そっとしてほしいだろう関係者がさらに傷ついていく、ということになりかねません。

自分の価値観、自分の感性にそぐわない相手を批判し、攻撃する・・この行動パターンは、実は多くの加害当事者も世間の人たちも共通して持ってるように思うけれど、どうでしょう。

件の事件の加害者も、孤立し、断絶し、他者との共通する世界をもてず、自分を排除している世間に対して、子供を殺すという行為で自己表現し、自己の存在を知らしめたかったのではないか、というのが私の仮説です。自分がひっそり死ぬだけでは、自分の存在を世に知らしめることはできません。かといって、ずっと生きていても、言葉も通じない、働きかけることもできない世間に、なにかできるようにも思えない・・となると、今のうちにやれることをやっておこう、と考えるのも至極当たり前。

そんなリスキーな思考に陥ってる人に対して「一人で死ね」と言っても、「俺の価値観を理解しようともしない世間にリベンジする確信が持てた」と思わせるのがオチ。

ほんとに事件の再発を防ぎたいなら、そんなリスキーな世界を生きている当事者を孤立させず、言葉を介してそんな人たちの世界に橋を渡すこと。その際に決定的に大切なのは、通じる言葉を使うこと・・それは相手を理解しようとし、どんな価値観であろうと、相互に認め合える言葉、いわゆる情けの通じる言葉です。それが情けは人のためならず・・ということにつながります。

不安や怒りのこちらの感情をぶつけるのではなく、異質の相手を受け入れる、深くて大きい感情でしょう。それが、善人なおもて・・であろうし、罪人よ来れ・・だろうし、なかなかその思いに至れない多くの人たちに対しての戒めの言葉が「情けは人のためならず」なんだけれどね。

 

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