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日本家族再生センター

支援・援助論 映画評

当事者があるがままを語る・・物語と支援と

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物語は・・独り言ではなく、対話によって紡がれます。人の体験や記憶はその意味を伴いながら物語として蓄積されていきます。

それは「私が私を語る事と他者がそれに応える事」その終わりなき作業が暮らしであり人生でしょうか。私たちは物語世界を生きています。その物語を誰と紡ぐか、誰と共有するか・・・親子なのか、恋人なのか、夫婦なのか、関係はいろいろ。

「私が私を語れない時」は誰かのコントロールに縛られて、自分の人生を生きていけない時かもしれません。今日もそんなお話を聞かせていただきました。

私はそんな自分を語れない方たちの語れなかった思いを聞かせていただきます。その方が自分とは何か、自分は何をしたいのか、どう生きたいのか、それらをその方自身が確認するために。

ただ、相手が悪いと相手の問題ばかりを語っていても、本人の自己決定がない限り、本人は自分の人生を主体として生きていく事は出来ません。支援の力を得て、相手を悪者にして、逃げようが訴えようが、自分の問題からは逃げられないし、自分の問題は誰と居ても、どこで暮らしても再燃します。

しばしば、DV支援は加害・被害を冷静に客観的に判断する事もなく、証拠のない訴えで支援を動かしてしまいます。被害者なのに加害者にされて理不尽な対応をされてしまうのはよくある話、冤罪DVです。

最近では男の被害者も言われるようになって、地元京都市の支援も、男の支援を始めたようだけれど、問題の本質も理解してないし、安易な分離支援しかできないから、男性支援も不適切、もちろん女性支援も然り・・。ほんと問題をこじらせてしまうケースもちらほらと。ほんとバカな支援者たち。そんな支援は予算が無駄、税金を使って人権侵害に加担するなんて・・・ほんとお粗末。

人のあるところ悩みもあるけれど、結局は悩む当事者本人が自分を理解し、他者と関わりつつ物語を紡ぐ事でしか問題解決になりません。他人が勝手に妄想して支援処置を組んだところで、問題の先送り、責任の転嫁にしかなりません。どんな物語であれ。

そうそう、物語といえば、先日見たシネマ「シェイプ・オブ・ウォーター」のこと。ある男の語りでスタートするけれど、その男が語るある女と半魚人の物語。船乗りを魅了する人魚、とは似ても似つかない、奇妙な半魚人と声を失っている掃除夫の女の恋の物語。

声で語れない女はそれまで恋を語る事もなく、一人で性的な快感を得て日常を生きてるけれど・・ゲイのおじさんや、夫とうまくできない黒人の女、独りよがりで独善的な生行為しかできない男、などなど、性の絡む話では登場人物はみなさん、いいセックスとは無縁な人たち。

そんな日常の中で、声の物語を必要としない半魚人と掃除夫の女は声なき物語を紡ぎ始めて、恋愛感情も分かち合う事に・・激しい絡みは映らないけれど・・そこは視聴者のご想像に委ねます。

この掃除夫の女だけでなく、どんな人であれ、恋愛もセックスも、ちんこまんこの問題は本質ではなく、物語を紡げるかどうかってところに行き着きます。そしてそれは家族の問題にもつながっていきます。

語り合う言葉を持たない家族・・そこには信頼やいたわり、愛情に満ちた物語は紡ぎようもなく、不安と不信、怒りと悲しみの妄想が連鎖していくばかり。人を愛する時、言葉を使って物語を紡げるか・・金や世間体はあってもなくても構わない。結婚とはそういうもの、籍や家の問題は些細な事。

誰かを助けたいと思う時、人の気持ちを引き出す言葉が使えるか、その言葉を受けて、援助者自身が揺らぐ事なく物語を紡げるか・・勇気を与え、自己信頼のもと自己決定を促せるか・・浅い知識や資格と権威権力だけで、人助けができるなんてものではありません。支援するとはそういうこと。

とりあえず、シェイプ・オブ・ウォーターはとても不思議で魅惑的な映画です。変態な私のおすすめシネマ・・・

 

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