すっと昔、私は虐待防止学会に何年か入ってて、毎年全国研究大会に参加してました。主に行政担当者や大学研究者や学生、福祉関係のいわゆる専門家やその卵たちの集まりで、当事者として支援に関わる私の存在は例外的存在でした。参加者のほとんどは行政、大学、施設、などから旅費や宿泊費、参加費をもらってます。私は自腹切っての参加なのでそれなりの成果を持ち帰りたい所。
そこでは立派なセンセの講演やシンポ、分科会などが開催され、全国から二千人程が集まってました。行政や福祉、施設関係者、研究者が情報交換したり学び合う、という趣旨は分かるのですが、当事者の視点で見る私には違和感を感じるものでした。
虐待関係の書籍が並ぶ前でセンセたちが名刺交換してたり、関係筋の方に学生らしき人が挨拶してたり・・社交の場でもありました。全て自分の仕事や研究のため・・なんかな。
分科会の研究発表でも、研究者が虐待親の研究を発表してたり、脱暴力プログラムの調査研究をしてたりと・・虐待当事者は分析され指導、教育される存在でしかありません。ある高名な研究者は「否認する当事者をどうやって治療構造に乗せるか、それが課題だ」なんて喋ってた時には、ほんとムカついてしかたない私でした。私は当事者として彼ら専門家の語りを聴くので、彼らの暴力性に違和感や、矛盾を感じてたからでしょう。
彼らの語りの中からは虐待防止の希望も期待も得られなかった私は結局その学会も五年ほどで退会しました。これでは虐待は無くならないわと・・・。
あれから十年・・虐待の認知件数は増加してるし、虐待報道も後を絶ちません。とはいえ、虐待死の数はある程度の数(百人程度?)で推移しています。一体何が起こっているのでしょう。
昨日も、5歳の子供が死亡し、親にあてた手紙が公開されていました。これまた胸痛む事件です。親が鬼畜のように報道されますが・・何のための報道でしょう。虐待した親の所業を暴いて、正義の鉄槌を下す・・そんな報復感情を満たすため?・・・だとしたら、あまりに虚しいものでしょう。これでは、虐待防止にはクソの役にも立たないのだから・・・虐待防止学会と同じです。
ことはオレンジリボンキャンペーンも似たようなもの。防止防止というけれど、なぜ虐待が起こったのか、どうすれば事件を防げるのか、そのあたりの考察が抜けているのだから。
15年ほど前、ある虐待死事件の裁判の傍聴に行ってたことがあります。法廷では、児相の職務の問題点、対応の不手際、などが弁護側から語られ、事件の背後に、支援のなさや、不適切な指導があり、被告だけに責任を負わせるのも理不尽だし無意味・・ということはわかります。けれど、判決には、それらの問題は一切考慮されず、ただ被告だけの責任とされてしまいました。司法は行政批判しないとの事実をあからさまに見せつけられた私でした。これは昔も今も、地方も中央も全く同じ。
この構造は虐待もDVも同じもの。真実を知ってる当事者の口を塞ぎ、権威権力で、勝手な正義を押し付け、断罪することで、市民の報復感情を満たし、支援にまつわる利権を維持するという果てしない闇の構造です。
この構造で飯食ってる専門家は、虐待やDVが無くなっては困ります。無くなってはこまるけれど、全国大会、研究会・・などなど防止のためにと予算が付き、利権が維持されるけれど、そこから排除されているのは当事者であり、真実です。
一つの事例の背後には様々な要因があって、当事者だけの問題ではないのですが、その事実を知るのは当事者本人です。当事者の語りから、その真実や答えも見えてきます。けれど、当事者を分断する価値観がマスコミによって強化されているようで、胸痛みます。
今回の事件も、病院に連れて行ったら、虐待がバレる、と隠蔽したことから、死亡事件になっていますが、初期の段階で当事者に寄り添う支援ができていたら、防げたに違いありません。
通報を奨励するキャンペーンや当事者に対するネガティブな報道が、ますます養育困難な当事者を追い詰め、育児をハイリスクなものにしてしまいます。当事者が求めているのは・・・真に虐待防止に寄与する支援です。それは・・通報ではなく、暖かい隣人の眼差しや、ちょっとした声かけでしょう。その小さな心の動きが、当事者の孤立を防ぎ、事件事故を防ぎます。
そのことと、子育てをめぐる社会的な問題、家族の有り様を規定する民法の問題にも触れるべきでしょう。離婚後の共同親権・共同養育、面会権の法的保障、労働過密の問題や保育の不足、など制度的に改める点を早急に改めれば、確実に虐待は減らせます。けれど制度をいじると利権構造が壊れるから・・抵抗するよねぇ。どこまでも日本という仕組みは腐りきってて、絶望的・・・国民が鬼畜叩きに踊らされてるうちは虐待は無くならないでしょうねえ。どんな当事者も元は、特別な人でも鬼畜でもないのにね。
問題抱えた当事者たちが集まって、家族のような形で生きてたけれど、そこには笑いや思いやりはあっても、虐待も暴力もなかった・・けれど世間の暴力性は垣間見れる・・・そんな仕掛けの映画でした。