家族問題を抱えやすいタイプの方って、私にはみなさん真面目な方が多いって印象を受けます。加害者も被害者も、結局かなり同じような価値観を持っているように感じるのは私だけ?
その価値観は、コントロールする、される関係を無意識に刷り込んでいて、コントロールしてることされてることにすら気づいてない。
逆に私自身はあまりコントロールされずに育ってるので、自分がコントロールされることはもちろん、他人が誰かにコントロールされることにも違和感を感じます。暴力的なコントロールはもちろん、権力や経済力でコントロールされるのもあまり好きではありません。
こんな私から見ると、問題抱える当事者は頭や体はりっぱなのに心は全くこどものまんま、ちっとも育ってない・・・と感じさせる人もすくなくありません。人の顔色をみてばかりとか、なりふり構わずだだこねるとか・・コントロールしないで相互利益のための関係をつくるだけの対人スキルや自己信頼が育っていません。
心が育つ・・・それがどんなものか私なりの考えを言うとすれば、自己肯定感、自己信頼、自己効力感、共感力、コミュニケーション力、など人が人として、人と関係を作りつつ自分らしく生きるための力を獲得しているということ。
けれど、それらは今の学校教育で教えるべき内容には入ってなくて、むしろ、それらの力が育たないように教育していると、私は理解しています。
学校でしっかり学んだ人たちが大人なって、りっぱな社会人として働き、結婚して家庭を持って、やがて親になったときに、その問題が形になって現れます。DVやモラハラもその一つ。
学校教育がすべて悪いということではなくて、大切なものが抜け落ちてたら、学んだことが活かせないだけではなく、学んだことが無駄になってしまい兼ねないということ。
その人の生まれ持った資質を最大限活かせるよう、その人の個性を伸ばし、自己肯定感、対人スキルなどを付与し、自分で考え、自立して生きて行くよう、そんな基本的な OSを入れたところに、様々な知識や具体的なスキルを教えれば、とても豊かな人生になるでしょうし、そんな人たちがたくさん育った社会は、安定的で平和的な社会になるでしょう。
けれど、現実の教育環境は、明治以来の近代化政策によって随分と歪められてしまいました。経済や権力のみが大切で、そのために画一的で合理的な思考になるような教育をされてきました。人の暮らし方、働き方も家族のあり方も、みんな、まやかしの正義やら伝統やらとかで洗脳されてしまっています。
こんな私には、今の学校教育はメリットよりもデメリットの方が多くなってしまう子供たちがたくさんいるように感じてなりません。極端なのはいじめとか自殺とかになってしまうこどもたちですけれど、そうでない子供たちも、人として大切なものを教えられずに育ってしまうのですから。
学歴とか就職先とかで、人の優劣が決まるわけでも幸不幸が決まるわけでもありません。そのためのランク付け、ランク獲得のために学校や親が汲々としてたら、学歴も職歴も、まったく人生の無駄・・になりかねないリスクを抱え込んでしまいます。
数十年後その結果を家族問題として聴かせていただく私には、その辺りが見えてしまいます。
先日は家族ファンタジーからの解放・・ということを書いてみたけれど、遡って考えたら、スクールファンタジーからの解放も大切ってことですかねえ。
学校に行こうが行くまいが、本人が望むなら、今はどんなところにいても学びは得られるでしょう。資格権威は別だけれど。大切なのは本人の自己成長力、そのための自己肯定感でしょうかねえ。残念ながら今の学校にも家庭にもそれは期待できない・・となると・・・はぁーもう日本は潰れるしかないか。
泥舟日本丸と一緒に沈没したくなければ、学校で学んだことは一度、再検証してみるといいかもね。嘘だらけだよー。そうそう、昔「学校に行くとバカになる」って本を読んだ時、ああっその通りと妙に納得しました。
ああっ過激なこと書いてしまった、こんなこと書くから、嫌われる、危険人物にされちまう(笑)・・わかってま。
私は自由に育ったし、これからも自由の中で育ちたい育てたい・・人もグリーンもお魚も、みんな自由でいて欲しいけれど、勝手に生きていけないグリーンやお魚たちも・・まっいいか。その点、野生は自由でいいよねえ。
孔雀サボテンの蕾がかなり大きく育ちました。
頂き物のでかく育ったらんちゅう。ちっとも綺麗じゃないけれど、存在感あるよねぇ。黒らんちゅうは寒いからひっくり返って寝ています。(笑)
毎日やってくるけれど、自由に生きる野鳥はリスクをしょって生きてるんよねえ。その美しいこと、機能的なこと。
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