支援・援助論

Me Too セクハラ問題  

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昨年末のハリウッドでのセクハラ告発デモがMe Too ムープメントとして世界中に拡散しつつあります。

性の自己決定、性被害撲滅という意味で、この運動にシンパシーを感じつつも、どこかで違和感を感じる私です。

私自身は性の問題だけではなく全ての人権状況に対して差別も抑圧もあってはならないとの思いで加害者の脱暴力支援をしてきたし、誰よりも被害者に対して篤く支援してきたという自負はあります。

その中で、加害被害は単純に男=加害者、女=被害者としてラベリングできないこと、現行の被害者支援が却って女性の自己決定力を奪い、女性を従属的で依存的な立場に貶めていると言う事実を理解しました。

また私自身、私はすけべで変態と自称しつつも、嫌がる相手に性的な言動を強制することは嫌悪すべきこととして生きてきたにもかかわらず、嫉妬妄想やら虚言やらで冷静な判断を失つた、退職した元スタッフにセンターを潰すべくセクハラを捏造されて損害賠償請求されるという、理不尽な体験をしました。

こんな私にすればMe Too 運動の趣旨は理解できても、その危うさに言及せずにはおられません。で、しばらく私なりの判断をまとめていました。そんな折、カトリーヌ・ドゥヌーブが この運動に対する批判とその一部訂正としての謝罪をし、改めて意見表明しました。http://www.huffingtonpost.jp/2018/01/12/cathrine-deneuve-lemonde_a_23331490/

彼女の意見もとても大切な視点と思いますし、さらに私なりの意見も表明しておきたいなと思います。

まず、セクハラ問題は男と女の対立の道具にされるべきではないということ。セクハラの加害者に女性もいるし被害者に男性も存在します。数が少ないから、問題にすべきではない、ということではないでしょう。マイノリティーの権利を尊重することで民主主義は成り立つのですから。性別の問題ではなく、パワー、要するに権力の誤用の問題なのです。

次に、性的な自己決定の問題と性の抑圧の問題があります。性の自己決定がなされない状況であれば自己責任も問われません。そういう意味で被害者に責任を問うべきではありません。けれど性の自己決定がなされるところに置いては性の問題は当事者間の問題にすぎません。

この性の自己決定の問題を抜きにして、性被害を語るとあらゆる言動が加害行為に転嫁されてしまいかねません。「セクハラはされた方がセクハラと感じたらセクハラだ」ということになり、被害者が暴力的な構造の加害者になりかねませんし、これでは一人一人の人権を尊重するという原則を被害者みずから破壊してしまうことになりかねません。実際、DV問題では、そういう現象が多発しています。

ということを考えると、単にセクハラやめろというだけではなく、性の抑圧をなくし、性的自己決定を一人一人が責任をもって行使する、そんな文化を構築することでしょうか。

女であれ男であれ、イエス・ノーを自己責任においてはっきり主張すること、プライベートな関係(権力構造とは無関係な関係)においてどちらからでも性的な誘いをする自由があること、イエスのないところでは性的な言動は基本ノーであるということ、これらの社会的な合意を作り上げていくしかないでしょう。

このことを抜きにして加害者を見つけてバッシングするだけでは、かえって、性的な言動だけではなくあらゆる言動が、バッシングの対象となり、人間関係を萎縮、崩壊させかねません。それは抑圧された怒りが憎悪となって、社会をより困難なものにし、差別抑圧を増大させかねません。だれにとっても不幸なことになってしまいます。

それにしても、ドゥヌーブ・・・若かりし頃の私は彼女の美しさに魅了されました。そして今、彼女は今も美しい・・・女としての自信と人間としての勇気を失ってないのだから・・・強え女はほんと素敵だわっ

   昔のドゥヌーブ

 

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