今朝は事務所で二時間ほどうとうとしたら朝。
朝まで生トークの後片付けをして・・簡単に朝ご飯づくり
お味噌汁にビッグサイズオムレツに水菜白菜の浅漬け
朝ご飯が終わった頃に関西組も二人やってきて、八人で研修の再開。今日は昨夜のロジャースに続いて、ナラティブセラピーについて私なりの理解を説明させていただきました。
ナラティブについて長くなるけれど、用いた資料の一部を参考に貼り付けときますので、興味ある人はどうぞ・・
ナラティブの後、お昼はパスタランチをいただいて、そのあとの研修はメンズカウンセリングです。ナラティブの先を行くメンズセラピーがどんなものか説明させていただきました。
が、このメンズセラピーは、効果は抜群だけれど、セラピストの資質や高度なスキルが求められること、権力社会システムに依存しているセラピストには不一致が起こりやすく、特に強い自己信頼感を必要とすること、など、その難しさも説明させていただきました。
メンズカウンセリングの講義のあとは、妄想ワークを幾つか。クライアントと物語を紡ぐには、妄想する力もとても大切、常識を超えたメタファーを多用し、多様な選択肢を暗示しうる力がセラピストに求められます。常識に縛られていてはそもそもメンズセラピーは難しいのかもしれません。
みんなつながる・・・「繋がるワーク」
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ナラティブセラピーは社会構成主義という考え方から導かれています。私はそちら方面はとんと無知ですが、基本は人の認識は言語によって形作られるというモノです。
人が何か語る時は自分の体験や考え知識に基づいて語ります。教師が生徒に語る言葉は教育モデルとして教師が蓄えた知識に基づくし、生徒が友達とひそひそ話で語るのは体験に基づいた世界の共有を求めているのでしょう。
セラピーとして語るとき、医者は治療者として医療を語り、患者は患者として自身の状況を語ります。それぞれ役割としての言葉を語っているに過ぎません。ナラティブではここに問題を見いだします。医者と患者という固定した役割は医療と言う構造の中で安定していて、医者は医者でありつづけ患者は患者でいるしかありません。
患者は自身の未来を医者に説明されそれに適合するよう説得されます。それは医療と言う権力構造があるから当然の事でしょう。けれど、患者自身の人生について医者が説明するなんて事が可能なのか・・。屋上から飛び降りるのも手術を受けるのも、温存して自然な変化に委ねるのも、選択肢を選ぶのは患者にあるのであって、患者の人生を語るのは患者でしかありません。
がん患者ならまだしも、心の問題についてドクターやカウンセラーがあなたはここがこうであそこがこうで、だからこうするといい・・と言えるのか。過去のトラウマが今の行動に影響しているから・・・認知の歪みがあるから問題行動が終わらないんです・・・等々。
そうです、精神分析や認知行動療法の限界を超える考え方がナラティブなのです。確かにロジャースもクライアント中心療法と言う事で、治療者が分析しようとか操作しようとかせずにただ、寄り添えばいいのだと革命的な主張をしました。権力構造を否定するのはナラティブも同じです。けれどナラティブとロジャースは重なる部分はあっても同じものではありません。
もちろん、フロイトやベックなどの理論とは違って、ユングは既に、一方的に分析するのではなく、生身の人として相手の世界に入り、ともに語り合う事で、セラピーが進む、という事を言ってますから、ユングの思想や技法がナラティブとまったく無関係でもないように思います。
ナラティブでは、人の人生は物語として認識されると考えます。単なる事実の積み重ねではなく、出来事の一つ一つに意味があり、それに関わる考えや感情があります。
例えば、リンゴを食べた、という行為がもたらす感情は人それぞれ、郷愁だったり、少しほろ苦い記憶につながったり、新しい発見の喜びだったり、陳腐な繰り返しでしかなかったり、と、人のそれまでの行きて来た物語の文脈で、様々異なります。
ですから、一つ一つのエピソードや状況は、その人の人生の物語の中でしか意味付けられないという事です。それなのに「せっかく頂いたリンゴを食べもしないで、捨ててしまったあの人は、やはりかなり病んでるよねえ」とDrが
彼自身の価値観で決めつけてしまうような事があるとしたら、それではセラピーにはならないのではないか、と考える事も可能です。
クライアントの語りに寄り添うだけではなく、その物語世界に入り込み、クライアントが人生の意味(物語)を書き換え、るための物語の共著者になる事がセラピストに求められます。
認知療法や精神分析療法が、セラピストを客観的・分析的立場に位置づけるのに対して、ナラティブでは、主観的物語的な立場に位置づけます。
これは、権力構造を排除するというメンズカウンセリングとナラティブが共有するセラピーの構造です。事実がどうであれ、その人の世界にはいり、物語りを紡ぐ事で、その人の未来の可能性が広がり、問題が問題でなくなるという、マジックのような事がおこります。
けれど、セラピストとは異なる世界に入り込む事はとても恐い事で、巻き込まれる事もなく、傷つく事も傷つける事もなく、たんたんと物語りを共有するには、それ相応の力がセラピストに求められます。
知識や技法・資格や権威で防衛を図っていては物語りの共有はできるはずはありません。思い出すのは数年前に見た、「ザ・セル」という映画だったか、私の好きなジェニファー・ロペスが精神科医として、無意識世界を他人と共有する装置を使って、凶悪殺人犯の心の中に入り込むというストーリーです。
得体の知れないクライアントと物語りの世界を共有することの不安はセラピストには誰にでもある事なのかも知れません。けれど、裸の自分で自分を護れる力・・自己信頼の力があれば、その不安はなくなります。
様々なクライアントと世界を共有する事で、私は様々な経験知を学ばさせて頂けたし、人生の多様性や可能性を知る事もできました。
私がわずかな知識をひけらかして教育しようとか、ありもしない権威をちらつかせようならたちまちクライアントは、クライアントの役割を演ずるか、抵抗して口を閉ざします。その人の人生を語る事はないでしょう。人生を語ってくれるにはそれなりに私も人生で応えるしかありません。
構成主義によれば、身体も精神も受動的なものではなく、能動的に情報を取り入れて反応としてアウトプットしているとの事。学習も単に世界から情報を取り入れているのではなく、情報の処理システムを自己組織化しているとの事。