とはいえ、一旦結婚した場合、離婚に際しては双方の不利益が極力減ずるように話し合うことが大切であり、そのために調停前置主義が採用されています。
なのに、現実のケースをたくさん見ると、その理念にはまったく反する、司法の現実があることがわかります。昨日も、理不尽な司法判断に辛い思いをされている方のお話を聞かせていただきました。
確かに司法は善悪を判断し、民事ではお金のやり取りで決着をつけるということがその機能だということはわかります。他人同士の利害上の争いなら、それで事足りるのかもしれません。
けれど、経済の問題というより、依存やら愛着やら、相互扶助やら、むしろその関係上の問題が主である場合、善悪で割り振って金で決着をつけるというのは、関係上の問題を余計にこじらせてしまうことになりかねません。
ましてや、証拠も不要、公的な捜査も検証もないところで、根拠の曖昧なDV判断をされてジャッジされ多額の金をむしられたり、親子関係を奪われたりすれば、司法に対する不信感、社会に対する憎悪を増長させかねません。
それは、いわゆる被害者の判決後の生活のリスクを高め、安心を奪ってしまいかねません。これは、家族問題に限りませんが、加害被害の関係においては、判決後の被害者の安心や安全を確保するためにも、修復的司法がもとめられる所以です。けれど、日本ではなかなかこの修復的司法が理解されないし、むしろ厳罰化で逆行した動きにあるようです。
被害者の処罰感情も無視できませんが、それだけでは加害者が脱暴力することはないし、加害の発生する社会的な背景に対するアプローチもなされないので、新たな犯罪、新たな被害者が発生するし、被害者の真の安心にも至りません。加害者の真の脱暴力や、私の言うポジティブ社会還元がなされないと、DVであれ、傷害罪であれ、減少することはないでしょう。
司法のジャッジする機能だけではなく、問題の原因に対するアプローチ、特に家族間の問題に対しては、心理的な問題も組み込み、その家族の将来的な幸福に寄与する判断が求められます。
慰謝料をとって離婚させることがその家族にとってどれだけの意味があるのか、真剣に考えてほしいものです。それで不信感や憎しみをたぎらせては家族の誰に取ってもいい結果になるとは思えません。
なぜ、離婚せざるをえないのか、その原因と解決策を、当事者も含め多くの関係者とともに考え、離婚以外の選択肢も含めた多様な判断をすべきでしょう。その中では加害者の脱暴力支援は不可欠ですし、双方の安全な対話も不可欠です。弁護士以外の中立的な立場で支援できる援助者が司法判断に関与すべきでしょう。残念ながら、今の調停員にはその力はありません。
家族間葛藤から問題が発生し、問題を司法に持ち込んだところで、お互いが傷つき、慰謝料や養育費をとったところで、それは弁護士費用でかなり消えてしまうし、養育費もずっと払い続けられるか、確証はありません。むしろ、判決が不信感や憎悪を煽ったとすれば、それぞれの将来、特に離婚後も子供を養育しなければならない母親にとっては、リスクを高めることになってしまいます。
それにしても慰謝料って、わけがわかりません。専業主婦が離婚するのだから、自立するまでの支援金として出してやれっというならわかるけれど、悪いことをした者だから被害者に金を払って弁償しろということであれば、納得できるはずはありません。善悪では割り切れない、相互の問題があるのだもの。
以前のクライアント、極端なDVに悩んでた被害男性、彼は妻にカミソリで腕を数十センチにわたってざっくりと切られたし、何度も激しい暴力を受けて、かなりのトラウマを抱えていたけれど、離婚訴訟の判決は、その男性被害者に妻に対する慰謝料を払えというものでした。
傷害罪なら、懲役数年、罰金数十万と言われてもおかしくない加害者が、妻であるというだけで、離婚に際して数百万をもらえるというのは、なんともおかしな話。もちろん彼は、判決はともかく、新たな人生を再構築して今は幸せになれてるけれど・・・。
昨日の彼も理不尽な司法判断にめげることなく、それを幸せな人生にするための、いい機会にしてほしいもの。昨日の語りの中で、私もやってもないのにセクハラだと理不尽な提訴を受け、部分敗訴とはいえ司法判断で(冤罪)セクハラカウンセラーにされた体験を語らせていただきました。要は腐った司法の判断に悩むより、自身の成長や自己信頼を高めることで、ほんとの人生を生きることができるということを話させていただきました。
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