四ヶ月前、「DVは なおる」 という著書を上梓したけれど「DVはなおらない」というありふれた根拠なき言説に対する異議申し立ての意味で、そんな著書名にしたわけ。とはいえ、なおると言っても、なおる条件が当然あるわけで「適切な支援があり、継続的な援助者や回復当事者たちとの関わりがあれば」という条件がつくでしょう。その条件がなければ「DVはなおらない」と言っても嘘ではないでしょう。
ということですから、世間でDVはなおらないと言われるのは、適切な支援がないからであり、DVをなくすには適切な支援があればいいということになります。DV防止法は「配偶者の暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」ですから、暴力の防止のためには加害者に対する脱暴力支援が必要となるわけですが、なぜか法律にはその文言はありません。
加害者に対する研究はしなさいとあるけれど、脱暴力支援をしなさいとはありません。また被害者の保護のために加害者を逮捕、拘留する根拠もなく、あるのは被害者をシェルターに保護すること、加害者に対して保護命令をだして被害者への接近を禁止するだけ。加害者は自宅を出て、野放しになるだけです。
しかもシェルターは決して住みよいところではありません。加害者の追跡から保護するだけの最低限の居住空間でしかありません。加害者の追跡を恐れて逃げかくれしなくてはならないなんて、安心でも安全でもありません。
ほんとは加害者と言われる人たちが脱暴力し、被害者に対して暴力的になることなく、冷静で配慮にある対話を重ね、必要であれば謝罪や償いを行うことができれば、被害者は逃げかくれする必要もなくなり、安心して暮らせるというもの。この脱暴力支援がDV防止には不可欠なのに、なぜか被害者支援の方達はそのことにいい及びません。
これは私の勝手な推量ですが、行政予算をもらって被害者支援を行なっているところにすれば、加害者の脱暴力支援に予算が使われたら被害者支援の予算が減らされるということを恐れるのは当然ですから、加害者支援を進めようとはしないのでしょう。被害者支援の方達は加害者の脱暴力支援のスキルも実績もありませんからねぇ。
このあたり、加害者プログラムの有効性は低いと自認しながらも加害者プログラムを行うグループもありますから、私には訳わかりません。その方達、被害女性の支援のために加害者プログラムを行ってるらしいけれど、加害女性やら被害男性の支援には言及しませんねえ。男=加害者、女=被害者、というバイアスがあるのでしょうね、きっと。
その方達、きっと、DV男は悪者で加害行為をする人格を矯正すべきだ、そのための更生プログラムであり教育プログラムが必要だということなんでしょうねえ。そのプログラムは世間受けはいいのか、けっこう全国からファシリテーターを募集、養成して、あちこちで加害者プログラムを展開しているようですが・・有効性に関する調査研究も報告も聞かないし、関係する当事者のブログなど見ても、回復は難しそう、というイメージしかないんだけれど・・。
あれでは、DVはなおらない、加害者プログラムの有効性は低い、というのもわかります。権威や権威、知識や理屈で、当事者を更生させようとしてもねえ、それはパワーコントロールそのものだし、プログラムを受けた当事者が自己肯定感をさらに落として、脱暴力を諦めるか、自暴自棄になって問題を起こすかくらいにしかならないんではないかな、と危惧する私です。下手するとパワーコントロールを暴力からより巧妙なコントロールに変えて、巧妙な加害者になりかねません。
そんなわけで、私は知識領域での変容では限界があると常々考えています。無意識領域、自己概念や情動部分の変容がなければ本当の意味での脱暴力にはならないと考えます。真の脱暴力のためには、心地よい他者との関わり、自分自身に対する自己信頼感、世界を共感的に理解しうる感性、弱者に対する慈しみや愛おしさの情動、などを獲得する必要があるし、そのためには、知識や権力、パワーコントロールを手放し、あるがままの自他を受け入れる体験が不可欠。その心地よくハピネスな体験を可能にする空間=サンクチュアリーとしてのセラピーがなにより脱暴力には有効であると確信しています。
けれどねぇ、知識や権威、資格や権力で当事者をコントロールしようとするいわゆる専門家の方達が、いくら予算使ってプログラムやっても、あまり有効性はないんじやないか、と思うんだけれど・・・どうなんでしょ。