今朝の朝日のコラムに木村草太が「共同親権子の福祉に適うか」というテーマで、自説を展開していた。彼は、以前から共同親権化には疑問を呈していたけれど、今朝の記事で、彼の論旨は理解できた気がする。けれど、彼が諸外国の事例をたとえているのには、歪曲しているところが多々ある。
海外でも、監護権は一方のみに与え、月に何回、何時間、という面会交流(現日本の状況)は一般的であるとのこと。これには疑問を感じざるをえない、海外の離婚事情は共同親権のみならず、共同養育が前提で、離婚に際して司法から求められる養育プランには、単なる面会ではなく、養育の実際であり、父母が実際の養育に関わることを求められる。実際に共同養育が不可能な距離での(他州にまたがる)離婚は認められないとする米国の判断もある。週に何日、年に何ヶ月、それぞれが養育を負担するか、それを取り決めるのが諸外国の離婚に際しての養育プランである。週に何回、何時間という面会が海外でも一般的と言う彼の認識は専門家としての発言としては無責任極まりない。
さらに、日本の司法判断でも面会交流が取り決められ、宿泊面会も可能だとあっさり発言する。司法が面会を命じることもできる、これもまた海外と変わらないと・・・その司法判断に執行権が伴わないという日本の現実を無視している。海外では執行権があり、それに従わない場合は親権を奪う強制処置もなされる。実際私が米国で視察したDV事案の裁判では、裁判官は面会させないと親権を奪って子供を施設に保護するとの厳しい判断を養育親に示していた。翻って我が国では、面会交流が司法判断によって阻害されているのが現実。長年面会交流やDV支援を継続してきた私も宿泊面会を司法が命じた事例をほとんど知らないし、そもそもそんな事例があっても、それを執行する法律も制度もないのだから、実行されるはずもない。
さらに彼はDV法についても理解できていない。DV法が身体的暴力のみを保護命令の対象とする、としているが、すでに何度も法改正され、DV法に精神的暴力も含まれているしそもそも、その暴力の有無を公正に判断する仕組みがなく、民事対応であるがゆえに、証拠も不要、中立的な検証もなく被害者と自称する者の申し立てだけで立件されるという、非常に危うい法制度になっている。がゆえに冤罪が多発しているという現実を彼は完全に無視しているのかまったく無知であるのか、いずれかである。
さらにさらに、共同親権にするには、父母の関係が良好である場合に限る、DVなど高葛藤の場合には危険だと。そもそも関係が良好であれば離婚もしないだろうし、離婚したとて面会実施に不都合は生じない。高葛藤を理由に面会交流を拒否し離婚後の共同養育を不可能たらしめているのが単独親権制度である。氏はこのことを全く理解できていないのだろう。
DV・虐待対応が不十分なまま共同親権になれば、子の福祉が害されるとのことだが、すでに議連で検討されている法案においてすら、DVがある場合には面会交流の制限が謳われていて、むしろ面会を拒否するために虚偽のDV申し立てが増加する可能性さえあり、逆の意味で、子の福祉が阻害される可能性が高い。
修復的支援もなく、非監護親や子供の意見表明より親権者(監護者)の意図が一方的に優先される司法判断の現状において、子の福祉が守られているとは言いがたいのが現実、この現状を変えたいとする引き離された親たちの願いが共同親権化にむけた運動になっている。その現実について、木村氏はまったく無理解、無知としか言えない。
最後に彼は子の福祉にとって急務なのは、共同親権ではなくDV・虐待対応を含めた離婚家庭への公的支援だと括っている。この発言の危うさにも彼は気づかない。公的支援・・すなわち予算が支援の利権化を招き、離婚家庭を増加させるという行政の闇についてはまったく無知なのであろう。
真に必要なのは、離婚以前に必要な修復的支援であり、離婚に際しても不要な対立を避け、子の福祉に叶う修復的離婚を目指すべきである。そのために先進諸外国は70年代ころから共同親権化だけではなく、DV・虐待に対する様々な諸制度を拡充させてきている。DVであれ虐待であれ、加害者に対する脱暴力支援と、子供の意思に反さない限りどんな親でも面会が安全にできるよう、ビジテーションセンターを運営している。
何れにしても、木村草太が司法の現場や当事者の現状、諸外国の離婚事情を理解した上で論考しているとは到底思えない。法学者としてはお粗末極まりない文を掲載した本人の資質も疑うがそれを無批判に掲載した朝日新聞もまたお粗末のそしりを免れない。