今年の夏のヌエック(国立女性教育会館)フォーラムにワークショップエントリーしたのは「加害女性の脱暴力支援」というテーマでした。と、審査で見事に蹴られてしまいました。ここ数年、毎年順調に参加できてたのにね。
そのフォーラム自体は年ごとに衰退して、参加者の減少高齢化が著しくて、ワークショップも内容が貧弱になりつつある中、私のワークショップは毎年それなりの参加を得てきました。何故、今回応募を蹴られたのか、思い当たるのは「加害女性」と明言したことです。
これまでの女性支援もその法的根拠となるDV防止法も結局「被害女性を加害男性から分離保護する」ことが目的化していて、加害者は男性、被害者は女性という、基本構造から出発しています。したがって、被害男性や加害女性の存在は無いものとされてきました。
けれど、これはあからさまな事実誤認で、内閣府の調査でもある一定の割合で、男性も女性もパートナーになんらかの暴力を振るっています。その性比はおおよそ3,5 : 2 の割合で、三人に一人の妻が夫に暴力を受け、五人に一人の夫が妻から暴力を受けているということになります。これを見る限り加害者は男だけとは限らないのですが、法律や制度は加害者は男で被害者は女として作られ、そのためのキャンペーンがなされます。自治体のパンフやら講座、支援、マスコミ発表などなど。
なぜこうしたことになったのか・・・売春防止法との絡み・・その利権構造もあるかと思うのですが、そのあたりは「DVは なおる」に齋藤さんがデータをつけて論証されてます。
結局、今の支援は離婚を望む妻にとっては役立つけれど、そうでない妻にとっても、夫に取っても役に立たない、むしろとても危険で有害、あるいは無意味な支援になりかねません。
ということで、私のところには、行き場の無い、被害男性や加害女性も支援を求めてこられます。
昨日はたまたま、加害女性の支援としてお二人のお話を聴かせていただきました。お二人とも渦中の困難を脱してて、かなり落ち着いてこられています。それぞれの渦中では、警察や行政なども絡むのですが、行政は無力、警察はとにかく前後も考えず分離処置だけしてほったらかし、というのが現実です。
その後始末としての支援に関わったわけですが、彼女たちの孤立や不安はかなりのもので、だれにも聞いてもらえない信じてもらえない、助けてもらえない、というところ。なぜなら世間ではDV女なんてあり得ない存在ですし、警察もその本質も根本的対策も考えられないのですから。
とはいえ、最近はぼちぼち男性のDV被害がマスコミで取り上げられるようになりましたが、かれらの逃げ込めるシェルターもなければ、加害女性に対する共感的な脱暴力支援もほとんど存在しません、私のところ以外には。
結局DVの加害被害というのは性別で分けられるものではなく、一人の中に加害者性も被害者性もあるということ、この両義性を理解したら、加害者です、反省をというのは無意味ということもわかります。男・女にかかわらず。
そのお二人、自分と向き合うというしんどい作業を乗り越えて、今は落ち着かれた様子で日々を過ごしておられるとのこと。けれど、時にはイラついたり、不安になったり、いろいろあることも。そんな時に安心して語れて受け止めてもらえる場や人とつながっていたら、再び暴走することもありません。
被害者であれ加害者であれ、DV当事者の支援は安心してもらって、不安や孤立の檻からでて、みんなとつながる安心感を得てもらうこと・・でしょうか。