人の心に関わる仕事をしてると、人の心の多様性を知らされます。そして困難や苦悩に苛まれる心から苦悩や困難を取り除くために、あれこれ作業をする私です。
その作業に用いるベーシックなツールが言葉。考えや気持ちを伝え合うのに言葉はとても便利です。しかも低コスト。
けれど、どんなツールも万能ではありません、それぞれ利点・欠点がありますし、そのスペックを理解せずに用いると、逆にトラブったり、無意味になったりもありえます。
言葉は概念と意味を伴いますが、おおよそ共通するものとして使われています。けれど厳密にはそれは人それぞれ異なります。
言葉を学ぶときのその言葉に対する体験や感情は人それぞれだから当然といえば当然ですが、日常会話の中でその個人差について検証する習慣はあまりありません。特に日本人は無意識裡に同質性を信じているからでしょうか。
言葉を記号として意味づけるとして、その記号にまつわる概念が多様にあり、その多様さの中にある要素は曖昧で混沌としています。例えば「犬」という記号から導かれる概念は一定のものがありますが、厳密にはそれは曖昧です。ヤブイヌは犬?リカオンは犬?狼と犬のハイブリットは?DNAでみてもその多様性からどこからどこまでが犬とはっきり決められるものではなく、相対的な差異の距離を測るだけでしょう。
そしてその犬の意味するところ、導かれる感情も人それぞれ、噛みつかれた体験のある人には、犬は危険で怖いという意味を伴うし、犬とともに育った人には、犬は癒しの対象だったりします。
要するに言葉という記号は実は曖昧でしかも使われる文脈で意味も概念も変わってきます。このあたり、量子論的な考え方とよく似ています。物質が厳然と存在(実在)するのではなく、観察者の態度が物質に反映されるというもの。
言葉(記号)もまた然り。一つの記号が厳然と実態としてあるわけではなく、時と場合、関係によって意味も概念も変わってしまうということ。
そして、ナラティブでは、人は言葉によって世界を認識し構築するという立場から見れば、人の意識や感情もまたそんな量子的な言葉で構築されたり、影響されたりするわけだから、人の心もまた量子的。
結果、古典的な合理主義では人の心も、そして人の心や意識が作る社会全体すら、理解不能で、制御不能。何が起こるかわからない世界、何を起こすかわからないのが人の心・意識でしょうか。
権力構造を排したところで、セラピストとクライアントがともに体験や思いを語り合い、それぞれの生きてる世界の仕組みに対する理解を深めることで、お互いの言葉の意味や存在の意味をすり合わせることができますし、そのことでクライアントもセラピストも成長し癒されることになります。
そして難しいのはその言葉の意味は、差別抑圧的な社会とも共有されていて、その社会の中ではセラピストとクライアントは違う意味を持たざるをえないということ。その誤差がセラピーの場に悪影響を及ぼすということ。この辺りがナラティブやオープンダイアローグの限界です。
その限界を超えるのが、当事者性の援助を基本とするメンズカウンセリングというわけ。病理社会の症状として問題を起こし、当事者としてラベリングされた者は、そのラベルを隠蔽して当事者でないふりをして援助者としてパワーコントロールする立場に身を置くか、当事者としてカムアウトしつつもパワーコントロールを極力排して当事者とリスクを共有してできる限りの支援を行うか・・この立場の違いで使われる言葉の意味も変わってくるし、セラピーの質も変わっていきます。
ある知り合いの女性は自らの被害者体験を職場で語るに語れず(語れば問題を抱えた危ない人と認識されてしまう。)何もなかったように仕事しているけれど、職員にも利用者にも伝えたいことはたくさんあるのに、伝えられないのがもどかしい・・と話されてました。その職場で彼女がカムアウトしてより良い仕事をするには、まだまだ力が足らないようです。けれど、そのことについて彼女は理解できているし、少しずつ、利用者にとってより良い仕事をしてくださるものと期待する私です。
私に関わってくれた当事者の方達、もともとは暴力だけではなく様々な問題を抱えておられたけれど、メンズカウンセリングとしての様々な支援を受けることで、自身の価値観や認知の変化だけではなく、情動部分すら成長させ、新しい自己像、新しい家族概念を再構築していかれます。さらにその体験を、またあらたな渦中の方に伝えていくことで、小さいけれど、少し世界が変わるためのポジティブ還元がなされます。戦わなくていい、争わなくていい、支配も所有も人の幸福には不要なんだと・・・。
けれどねえ、こんな心境に至るには、それなりの時間と何よりそれなりの支援者との対話や体験の共有が不可欠なんよねえ。だから難しい。だってメンズカウンセラーってまだまだわずかだしね。
それにしても、自身の思いに囚われて感情をたぎらせていたり、その小さな世界での言葉の意味しか知らず、その言葉を相手構わず吐き続けるしかできない方、その辛さはわかるけれど、その言葉や感情をセラピーの中で変えていくには、セラピーという場に来ていただくしかないのも事実。争いやパワーコントロールは私のセラピーとは無縁だし、そんな戦いを支援してくれる人は世間にはたくさんおられるだろうし・・・
今日もある方との対話で、そんな争いの場に巻き込まれないよう、戦う支援者とは距離を置くこと、争いの場を、争わずに対話する場として利用する高度な戦略についてなど・・助言させていただきました。裏街道も立派な選択肢と言えるメンズカウンセリングならではの助言かな(笑)
そうそう、そのメンズカウンセリング協会の認証研修会は今度の日曜日。再生センターで。そこでは当事者性の支援ができてるかどうか、相互に学びの時間となります。
ああっ今日は小理屈書いてしまった。最後まで読んでくださった方お疲れ様でした。途中でもお疲れ様ですよねぇ。こんな屁理屈めいた、こ難しいこと・・・まあ気が向けばコメントでもいただけたらありがたいです。