覚せい剤はダメ・・・DVは犯罪です・・・暴力反対・・いろんな言葉がキャンペーンと合わせて使われます。
けれど、その言葉が有効だった試しがありません。虐待もDVも無くなることはないし、薬物犯罪も減りません。
なのになぜそんな言葉が使われ続けるのか・・結局、結果的にアリバイとなって為政者や体制に甘んずる人たちの自己満足に使われているのではないか・・と、ひねくれ者の私は考えるわけ。
当事者の困難に寄り添うのは怖いけれど、自分の善意を自分で確認するために何かするしかないし、そうだ通報しよう(匿名で)とか、とりあえずそういう職場にあるから、責任の範囲で(責任を負わされない)被害者のために動こうとか・・そんな時にキャンペーンコピーは役にたつ。自分もその言葉を唱えることで善意で何かしてる・・・とのアリバイができます・・要するに自己満足のために役立つ言葉。
大切なのは・・自分が満足する言葉ではなく、当事者が納得する言葉、当事者が救われ、問題が解決したと言える支援のはずだけど・・。
暴力はダメ・・・そんなペラい言葉で自分を満足させるのではなく、当事者がほんとに救われるために何かできることをして欲しいもの。まずは当事者が何を必要としているか、当事者とは誰か・・そのあたりをしっかり学んで欲しいけれどね。マスコミや行政の発表を鵜呑みにするのではなく。
薬物依存者を断罪して処罰しても、犯罪者を閉じ込めて科刑しても、暴力や犯罪を止められない当事者が多いのは現実だから、一生閉じ込めろ、とか、殺してしまえ、とか、昔はロボトミー(脳の外科的処置)してたけれど、今は薬物で治療しろとか・・
これらの議論も相変わらずだけれど、その有効性は疑わしい。次々閉じ込めても、閉じ込める費用がかさむだけ、出て来ればさらに強力な犯罪者になりかねない。死刑で一人を殺しても、社会が変わらなければまた犯罪者が出てくるだけのこと。必要なのは、なぜ犯罪やDVが起こるか、その原因に対する理解と対策、加害者がどうすれば暴力を止められるか、その現実的な方法の提示です。
昨夜は、先日の「ドクターストレンジ」に続いて映画「アサシン・クリード」をみました。マイケル・ファスベンダーとマリオン・コティヤールの歴史&アクションの映画。
映画のストーリーは、人類の攻撃性・暴力性をなくし、世界支配を目論む騎士団とそれに抗うアサシン教団の中世とそれに続く現代の戦いの物語。
暴力をなくすために人々の自由を奪うのが正しいことなのか、自由のために命をかけて戦うことが正しいことなのか・・・映画では荒唐無稽な物語の中に、深いけれどリアルな課題が突きつけられます。
自ら考えること(自由)を放棄した人たちが、権力に支配された時どれだけ激しい暴力を正義の名の下に行うか、アウシュビッツやルワンダ虐殺、ポルポトの虐殺など歴史をみれば明らかです。
けれど、人々が自由を行使することもまた難しくそれは社会の安定や安全を脅かすことにもつながります。この矛盾の中で人類の歴史は紡がれてきたと言えなくもないし、それはDV問題から、テロや戦争の問題にもつながります。
暴力を暴力で終わらせることが可能なのか・・・それはありえないだろうというのが私の判断。DVやめろ、というのが無駄っていうのはそういうこと。
ではどうすりゃいいの・・・それはねー・・・(笑)