統計で見る限り、こうした凄惨な事件は家族を含む親族間での事件の割合はほぼ半数近くあります。家族は危険といっても過言ではありません。
なのに、世間では家族は信頼とか、安らぎとか、絆とか、愛とか・・・美しいファンタジーを信じていて、結婚したらおめでとう、という言葉が飛び交います。
けれど、家族の危機に関わるのが私の仕事だし、家族で辛い思いをされてる方のお話を毎日のようにお聞きしますから、私は簡単に結婚おめでとうとは言えません。
もともと「絆」は家畜を繋ぎとめておくための紐という意味があったように、親子であれ、夫婦であれ、その関係は他人ではなく、悪しき意味での「絆」に縛られた不自由な関係でもあります。切るに切れない、別れるに別れられない、そんな関係でもあります。
もちろん、その関係が愛情や信頼、思いやりで繋がる関係なら、こんなに素敵なことはないでしょう。もちろんそういう家族もたくさんあるでしょう。けれど、そうではない場合を毎日聞いてると、どこの家族も、結構しんどいもの抱えてるよねーというのが私の実感。
「家族はしんどいよね」という言葉は家族でしんどい人にとってはとても心地よい安心できる言葉のようです。家族は助けあわねば、辛抱して当たり前、わがまま言うべきではない・・などなど、説教がましいことを聞かされてきた人には、家族と上手くやれない自分を責めたり自己嫌悪になったりしてますから、うまくやれなくて当たり前、との私の言葉は救いになるのかもしれません。
特に、夫や親のコントロール、特に暴力的な支配で傷つき、逃げることもイヤということもできず、ただ自分を殺して従うしかない被害女性は、加害男性の死を望んでしまうし、そんな怖いことを望んでいる自分にも嫌悪し、では自分が死んでしまうのも悪くない、との思いにもとらわれてしまいます。
以前もある女性の話を聞かせてもらったけれど、寝静まった夫の枕元に包丁を握って立ってた自分がいたとのこと。幸い、途中で我に返って事件にはならずに済んだけれど・・と。
カウンセリングでもグループワークでも、そんなとんでもない思いを語られる方は少なくありません。むしろ当たり前のことのような気もします。そんな気持ちを言葉にできた時、その思いは誰かに受け止めてもらうことで成仏していきます。けれど、言葉にする場もなく受け止めてくれる人もいなければ、その思いに囚われたまま、思いは増幅し、ふとしたきっかけで行動化ということになってしまうのかもしれません。マスコミでは残虐な犯人、とのイメージを流されてしまうけれど・・。
どんな感情でも抑圧することなく、言葉にすることで、問題化するのを防ぐことができます。けれど、殺したい、死んでほしいと願う感情はなかなか言葉にできないし、エライセンセの前ではなおさら、言葉にしづらいのかもしれません。このあたり、カウンセラーの専門知ではどうにもできないしね。
ちなみに私はそんなクライアントに対して「殺したいよねえ、死んでほしいよねえ・・でも殺したら、あなたも不幸になるし、あっさり殺したら復習にならないし・・・とりあえず呪い殺すってのはどうかしらん」なんて半分マジで答えたりもするのですが・・・
もちろんその言葉で、怒りが少しずつ昇華し、不思議と殺したいという想いから解放されるのもあるようです。人の心はパラドックス・・・
ワークはコーヒータイムを兼ねて・・
先日の苔玉もどきから突然にょきっと生えてきたキノコ
六年使った玄関マットがほつれてきたので新しいのにかえました
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