私は子供の頃から自分が賢いと思ったことはなくて、自分は頭が悪い=アホだと思ってたし、基本それは今も変わらない。算数はできない、漢字も書けない、覚えも悪い・・今で言うLD児だろうと思う。だから授業についていけなくて、授業中は自分の世界にこもってた。
けれど、言語能力だけは優れていて、読むこと聴くことは容易くて国語だけは勉強しなくてもわかったし、成績も良かった。漢字の書き取りはダメだったけど。センセの話してることも、そのいい加減さもよくわかった。だからセンセをバカにもしてたわ。
そんな私が成長して思春期を過ぎた頃には、自分が社会に適応できないことを理解してたし、その社会のおかしさにも気付いてた。そのあたりの不一致から不安障害を抱え、アルコール依存になっていくわけだけれど、その闇の時代がほぼ20年近く。
いろいろあって、その闇から抜けた時には社会適応は拒否してアウトローとして生きていくことを選んだけれど、これが大正解。誰からも支配されない支配もしない、世間体もどうでもいいし、それでいつ死んでもいいと思えるようになったし。それからはやりたい放題やってたら、自然と世界を理解しつつ自分の特殊能力の言語能力を活かせる方法がわかり出してきた。
いろんなことをやり出してたらそれなりの専門家や専門家の卵みたいな人とも関わるようになったけれど、そんな人はたいして能力がないと言うこともよくわかった。心理に関して私は学ばなくても理解できたし、誰よりも言葉が使えた。で、やりたいことをしてたら対人支援とかカウンセリングとかいうことを普通に行うようになってたと言うわけ。
こんな私からすれば、学校で学ぶ専門知識とか資格とかはほんとペラくてさほど意味のないこと(私にとってね)。それより世界から、当事者から、現場から学ぶことの方がよほど値打ちがあるということ。
そして今私は、誰もやらない援助論をぶち上げて、それなりの実践も積んできてる。その有効性も実感してる。ただ、私はアカデミズムからもメディアからも行政からも干されてるので、なかなかそれを啓発することができないでいるのはほんと勿体無い話。誰にとってって人類にとってね(笑)ほんと専門家もメディアもバカばっかし。
いまでこそ、こんな私に成長してるけれど、原点は授業についていけないアホな子供だったこと。なまじふつーに賢かったら・・ふつーのじじいに成り果ててるでしょうねぇ。ほんとアホでよかった。
そうそう、今日は女ワークの日でした。オンライン・リアル合わせて九人の参加。お題は「ドツボの日」。みなさんかなり厳しい過去体験を語られたけれど、対話の中で癒されたり、気付かされたりと、かなり感情が動いたし思いを分かち合えたようで、何人もの方が言葉にできない不思議な感情で涙されていました。ほんとみなさん少しずつ育ってるな、と嬉しく感じた私でした。