ここ数年、定期的に虐待事件報道がなされて、虐待防止のためのキャンペーンが張られています。市民のみなさま、真に受けてひどい親から子供を守らねば・・児相はどうしてる、警察は何してる・・との意見が世に溢れ、行政は○○しますと、対応を発表・・議会で予算が割り振られるという筋書き。(これはDVも同じ構造。)
けれどねぇ、虐待に関して客観的で冷静な議論は聞いたことがありません。個別のケースの残虐さばかりが言われて、世間の報復感情やら正義感が煽られます。
この記事から読み解けるのは、虐待死はこの十年で120件から60件ほどに半減していること、実はその60件ほどの虐待死は親子心中も含まれます。となると、残虐非道な親の子殺しという事実は確実に減少しているということ。また、虐待死は減っているけれど、虐待件数は激増していること。この矛盾は何を意味するのでしょう。
そもそも虐待の定義はなんでしょう。警察や児相の発表する数字は認知件数です。それは通報とか相談で受け付けた件数を言います。ですから、虐待かどうかその判断は通報したあるいは相談したひとの主観によります。
しばいててもだれも通報しないとか、しばかれた子供も大したことと思ってなくて、平然としてたら、そもそも虐待とカウントされません。けれど、風呂に入るのを泣いて嫌がるこどもを無理やり風呂場で洗髪なんかしてたら、近所の物好きが、すわ虐待だ、毎日風呂場でしばきまわしてると、警察や児相に通報すれば、虐待とカウントされてしまいます。
ですから、認知件数は主観的だということと、虐待死は一定の客観性があるということ。そのギャップは人々の意識を煽るマスコミやその背後の力があるということ。この事こそが重要です。
ナラティブセラピーでは「問題がシステムを作り、システムは問題を必要とする」ということです。「児相利権」に象徴されるように、システムができ予算が動くと予算のためにシステムを維持するお客が必要になります。(DVで言えば逃げてくる被害者)そう、保護すべきかわいそうな子供です。ひどい親から子供を引き離してお金にする・・これが児相利権のいう「闇」でしょう。
ほんとはね、かわいそうな子を分離するのではなく、育児を知らない親にちゃんとした育児を教える場とか、共感的な支援者とか、分離するにしても、関係を遮断するのではなく、信頼や愛着を断たないで、その関係をより良いものにする修復的支援こそ求められるし、そういったところに予算をまわしてほしいもの。けれどねぇ、そいういう支援者もいないし、援助論もありません。教育的指導的支援ばかり。ほんとは世の中の労働条件や福祉の問題なのにすべて当事者のせいにされて当事者が指導されないと解決しないかのごとく、世論形成されています。
これでは虐待ってなくならないよね。困ったもんだ。私? 私は着実にやってますよー。子育て中の親御さんもたくさん関わってるしね。