困難の渦中にある方はいろんな感情が沸き立っていて、冷静な判断や安定的な感情には程遠い状態にあります。
そんな方の感情を煽って、行動を強化させるのか、感情をなだめて行動を沈静化するのか・・支援のあり方はどちらもありえます。
あなたは被害者、傷ついてるのよ、怒っていいのよ、怒って加害者と戦わないと解決しないわ・・と言う言い方とか・・
あなたは加害者、反省し自分のダメな感情を無くしなさい、と自己否定感情をさらに貶めるとか・・
私はどんな感情であれ、クライアントの感情は否定しませんし、受容し共感していきます。が、決してそれを煽る事はしません。
とはいえ、抑圧されていた感情についてはフォーカスし、言語化することは必要と考えます。
けれど、言語化された感情を煽るのか、なだめるのか、ここでも、おおきな違いがあり、その後の行動や回復に大きく影響します。このあたり、ジュディス・ハーマンの記憶回復療法に潜む危険性を八幡洋が「危ない精神分析」で書いてるところ。
加害にせよ被害にせよ、その意味付けは文化的な背景や個人的な体験によって、ずいぶん異なります。
その人の行動や感情がどうあれ、その人が他者との関わりの中で幸せを感じてくれればいいと私は考えるので、その人の行動を善悪で判断しないのは当然だし、快不快などの感情についても、私の基準をその人におしつけないようにしています。私にとって心地よい事でもその人には不快な事かもしれません。
私とのカウンセリングが進んでいく中で、いわゆる性被害を訴える方が男女にかかわらずしばしばおられます。いわゆる性被害だけれど、その方達、私に初めて話すけれど、それまで誰にも話してなかったけれどと、おっしゃいます。
確かにその体験がその後の人生に影響したのは事実だけれど、その体験をどう意味づけるのか、それはセラピーにとってとても大切な事。本人の被害者性を煽るのか、抑圧する社会の問題として被害者性を相対化していくのか・・・。
私は少なくとも性的なことを、社会的な抑圧を受ける事と位置付けはしても、あくまで性は自己決定に任せるべき事で抑圧されるべきではないと考えています。被害者性を煽って二次受傷を招くべきではありません。性的な加害被害という視点で見る事より、自己決定に対する侵害であり、社会的な抑圧に対する抵抗であって欲しいと思います。
「私がこの体験を語れなかったのは社会的な抑圧があるからであり、加害者をいうなら社会そのものが加害者であり、具体的な自己決定の侵害に対しては、はっきりとノーと言える私」と言えるまで回復して欲しいと願いつつ、対話を重ねていきます。
傷ついた弱者がさらに社会的な抑圧や加害者の攻撃を受け、傷つきを重ねていくのはさけたいばかりに、囲い込み保護していく・・そんな支援ではいつまでも被害者は回復しないだろうから。DVでも性被害でも。
問題の本質は個人的な体験にあるのではなく、社会的な抑圧構造にあるってことだわ。
そうそう、今日書こうと思ってたのは、社会的な抑圧構造から利益を生み出すために、権力はどういう事をするかってことでした。私の考えでは、権力はそのために不安や恐怖を煽るという事・・・この仕組みにセラピーものせられています。DV加害者は危険・何をされるかわからない・・医療も然り・・何々菌に感染して何名死亡した、と言うけれど・・薬の副作用で何名死亡したと言う数字は出てきません。権力は金が好きだしね。
不安を煽れば、医療でも福祉でも、教育でも金が動きます。ほんとは無駄な金なのに、多くの人は不必要な支払いをして安心を得ています。そのあたりを知られないよう、権力はまともなマスコミは叩くし、教育にメディアリテラシーも人権教育もいれません。国民総白痴化計画かも。そうやって、権力は金を生み出し、その金で国民を支配していく。
不安と恐怖・・・近代社会を動かす重要なツールです。独裁者でも核ミサイルでも、病原体でも共産思想でも・・・恐怖を煽って、ネズミを檻に追い込むように、国民を投票所に向かわせる安倍政権。
賢いネズミは投票所でどの票を選ぶか・・・・
そうそう、不安と恐怖といえば・先日ナイトシネマ「エイリアン・コヴェナント」を楽しみました。エイリアンシリーズはずっと見てるけれど、プロメテウス以来、そのストーリー性に少し無理を感じて、映画としては面白みがなくなったかな。昔ほどハラハラドキドキしなくなったのもあるけれどね。