私のところには、いろいろ困難や辛さを抱えた人たちがやってきます。その方たちは、たいてい周囲の人たちから変だとか、変わってるとか、凶悪だとか言われて傷ついたり、自分でもどうしていいかわからなくなっていたりすることもすくなくありません。
その姿は、昔々、私自身が自分の存在と世間のありようの差に悩み実存不安に苛まれてたころの体験と重なります。
今の私は確固たる自己信頼で自分を支えているから、他人にどう言われようと、世間にどう扱われようと、世間とは相容れない自分の価値判断や自分という存在に不安を覚えることはありません。
こんな私からすれば、世間は恣意的で差別的な権力や権威に流され、自分の頭では考えられない人たちで形作られている、ように思えて仕方ありません。ここまで言えば言い過ぎだ、と不快に感じる人も少なく無いかもしれませんね。
けれど、この感覚は私が子供の頃から持ち続けている感覚で、このことから世間と折り合いのつかない私自身を持て余して、やがて不安障害を抱えたりアルコール依存のまま三十歳近くまで生き続けるのですが・・・。
三十で人生を達観し、心の欲するままに生きよう、そのために全てを「天=神?」に委ねることにしました。命も暮らしも・・・・
あれから三十数年の今、あの時のまま変わらず生きている私がいます。不安も困難もなく、あるがままを受け入れ、暮らす日々。
こんな私だから、世間の常識や当たり前に傷つき、生きる力すら失った人たちに対しても、そのままでいいし、あなたの問題ではなく、あなたを受け入れない世間の問題だから・・大丈夫、傷つく必要も無いし、世間に受け入れらなくても大丈夫・・・と、はっきりと伝えることも可能です。
先日のキャンプセラピーでも、焚き火の傍で「不幸な私の物語」を語り合うと、自分の不幸な物語をなぜかそれを笑ってしまう自分に気づいたりという、不思議なマジックがおこります。
なぜ不幸なのか、なぜ辛いのか・・・わかってもらえない、批判され、排除される、攻撃されるから辛かったし、不安だった。そのエピソードをただ聞いてくれて、受け止めてくれて、そんな自分を大切に扱ってくれたり、真摯に対話を重ねてくれる人たちの中では、私は私のままでいい、私は間違ってない、という確信を得られるから、私の不幸な物語が、私が耐え抜いたり、乗り越えた勇気の物語に書き換えられていきます。
「私には治療や更生、教育、指導、はいらない、私のままでいいのだから。こんな私は私が生きていく方法を私が考える、育ち合い学び合う仲間たちととともに」・・・と。
ある人は、働かない選択を確信したし、ある人は働いても働かなくてもいい自分を見つけたし、ある人は離婚しても彼女に幸せになって欲しいと思ってる自分を見つけたし。
語り合った多くの人たちは世間の縛りから解放されたのか、あるがままの自分に勇気と信頼を少からず感じてくれたようで、寝不足にもかかわらず、その喜びを笑顔で語ってくださいました。「ありがとう、とても楽しくすごせました」と。
で・・・今朝は年金事務所に行く前に少し脚を伸ばしてモーニングシネマに。メル・ギブソン監督の「ハクソーリッジ」です。沖縄戦の苛酷な戦いの中で、人を殺さない人生を全うするために銃なしで衛生兵として参戦する主人公。
バカにされ、暴力を受け、裁判にかけられ、バタバタと戦友が殺されていく戦場に武器を持たずに参戦した彼の信念や勇気は、いったいどこから・・実話を再現した物語・・・多分、重すぎて・・日本ではヒットしないだろうな。私にはとても楽しめる映画だったけどね。