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心は自由かな・・ 

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昨夜のワークで感じたこと、それにジブリ最新作「レツドタートル」で考察したこと・・・それは・・・多くの人は心の自由を奪われていることに気づいてないってことかな。

昔、I・イリイチが「アンプラギング」と言ってたことや、A・トフラーが「プロシューマー」と言ってたことを難しい理屈は分からない私が、直感的に自分の人生に応用させてきたことで、今私は心の自由を獲得できているけれど、それは私がLD(学習障害)という特性で、近代的な生産(労働)と消費(生活)の構造に不適応だったからという幸運があったからだと理解しています。

ただ、社会不適応な人が全て私のようにラッキーでいられるか、というとそうではありません。むしろその逆な場合がほとんどかもしれません。私の最大の幸運は私の両親という受容的存在でしょう。

近代の構造は、自己を理解し自然という世界といかに調和させて自己の生存可能性を高めるかという、人々の主体的な能力を奪い、自己の身体や心まで、他者の管理に委ねさせ、自己決定能力を与えないまま、社会を管理する者のコントロールに人々を依存させます。

人々は、その管理社会の中でしか生きることはできないし、自由に考えることもできない、魂の牢獄の中を生きています。

ずいぶん前の映画「マトリックス」では、主人公「ネオ」が見知らぬ男に「虚構の中で安楽に生きるか、真実の世界で自分を生きるか選択しろ」というシーンが冒頭に現れます。

近代社会は生れ落ちた人に対して、合理的な価値観を植え付け、この管理された社会に適応すべく平和な一市民として生きることを教え、人々はその教えのまま、働き生活し、死んでいきます。それでみんな幸せなら問題はないのだけど・・・

近代の仕組みは必ずしも人々の幸せを保証するものではなく、むしろ、相克と葛藤をもたらします。その苦しみがどこから来るのか、誰も教えてくれません。本人は仕事がなかったり、お金がなくなったり、家族に暴力を振るったり振るわれたり、ギャンブルやアルコールを断てなかったり・・様々な困難を抱えているわけですが・・問題の本質はそこではありません。

そのような表面的な問題ではなく、生まれて以来学んできた合理的な価値観と、何万年と続く生命の連鎖に息づく情動の有り様の不一致と言えなくもありません。

自己とは何か、世界とは何か、自己の身体・心に息づく生命の力を理解し、他者や世界という自己を投影する鏡の中で、自我を再構築することで、近代の価値観から必然的に陥る葛藤から解放されます。

その際に、近代的価値観の一部である専門家の話を聞いても、書物を読んでも、答えは出てこないでしょう。近代を超えた価値観をもつイリイチやトフラーのような人の知見ならいざ知らず。

むしろ、そういう近代の知の体系に頼るのではなく、光や風、味や肌触り、などに触発される自己の感覚を体験として重ねていくことの方が確かなように思います。もちろん、それにはシャーマンやそれらに通じるセラピストとしてのガイドが必要かもしれません。このあたり、クリシュナムルティーの「英知の教育」に詳しいかな。

レッドタートルでは言葉はないので、登場人物の行為を観客が勝手に意味付ければいいけれど、当時所人物一人一人(たった三人だけれど)の生きている世界を客観視しどこがどう重なっているのか検証するのも意味があるように思います。

主人公?の男にとって、魂の自由はあったのか、家族とはなんだったのか・・・、考える素材としてはいい映画なのかもしれません。

私は自由に考える人だからこんな風に考えるけれど、そもそも魂の自由など考えたことも感じたこともない、心の牢獄の中で生きてる「ネオ」のような多くのふつーの人は、レードタートルを孤島に流れ着いた男の幸せ物語として見るのかもしれませんね。ああっ私って変態だねー。

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