日本家族再生センター

子育ては誰がする・・・全体主義も核家族、単親家族もやばいしね。

私周辺では子供が不登校・・という話はごく普通に語られることで、そのこと自体が大きな問題だとは考えていない人が多いようです。

とはいえ、だれしも我が子が学校に行かなくなったら、たちまちいろいろ困ることになります。子供を家に置いて仕事に出るわけにはいかない、引きこもりになって社会参加できなくなったらどうしよう、周囲の人にダメ母と言われるのではないか・・などなど悩み・不安は尽きません。

けれど、カウンセリングを受けたり、グループワークに参加していろんな親子の話を聞いてるうちに、不登校に悩むのは自分だけではない、学校に行かないこと自体が問題なのではない、親や社会の大人たちの、不安やそこからくる子供に対する支配やコントロールが問題の本質で、こどもの問題ではない・・・などなど理解していくにつれ、こどもを何とかしたいという思いから、自分をなんとか変えなくては・・との思いに変化していきます。こどもをほって置けるようになるのです。

私はそもそも近代家族は人類にとっては必ずしも優れた家族形態ではないと考えています。子供は多くの大人たちに愛され、世話を受け、多様な人格モデルを学習し、自発的に行動し、体験し、多様な人間関係や自らの可能性や限界を体験から学んでいく・・そんな放牧育児が理想と考えています。

その子供の発達に応じた、対応・・・支配や管理を極力少なくし、自主性に任せながらこどもたち同志のコミュ二ティーで育ちあっていく・・それを可能にする放牧・・といざという時に安全や安心を保証する安全基地としての親や大人たちの存在。

けれど、今の社会、核家族が当たり前で、子育ては親の責任、しかも父親は仕事に追われて育児どころではなかったり、離婚して一人で育児せざるを得なくなった母親も育児の責任を問われます。そんな親にしてみれば、子供が不登校になったらたちまち不安と困難に直面することになります。

お前の育て方が悪いから子供が不登校になるんだ、もつとしっかり子供の面倒見ろ・・などと夫に言われて、そのどうしようもなさを全く理解してもらえなくて、相互不信がたかまりモラハラやDVになるのも時間の問題。思いあまって女性相談に行ったりすると・・・

「あなたは悪くない、離婚すれば問題解決」などと平気でしかも善意で離婚を勧める支援者やそれを可能にするための弁護士やら司法やら・・けれど、離婚後に起こる問題について彼らは説明もしないし、支援もしてくれません。

一体誰の問題でしょう、誰が悪いんでしょう・・・子育ては本当に親だけの責任でしょうか。昔ルーマニアのチャウセスク大統領は避妊、中絶を禁止しし出生率を上げようとしたけれど、貧しい家庭では育てられなくなった子供を、施設に「捨て」ました。

まともな養育を得られなかった大量の子供たちは心理的に大きな問題を抱え、大人になって、ケアを受けても、社会適応できない人たちとなりました。この人たちは「チャウセスクの子供たち」と呼ばれ、養育と発達、の実証研究のテーマとしてたくさんの研究がなされたようです。

https://courrier.jp/news/archives/207445/?utm_source=article_link&utm_medium=longread-upper-button&utm_campaign=articleid_207447

この実際から、家族形態を破壊し、社会全体主義の中で画一的に子供を育てることの危うさを垣間見ることができます。逆に夫婦だけに子育ての責任を押し付け、社会的養育のコストを減らそうとする、現代社会もまた子供にとって理想とは程遠いものでしょう。

というわけで、私のワークでは、子育てはみんなで・・子どもへの支配やコントロールは極力少なくして・・という理念で、子連れでのワーク参加をOKとしています。子供たちも私のワークでは親にあれこれ言われないとか、いろんな大人たちが自分を可愛がってくれる・・そんな体験を重ねるので、子供自身がワーク参加を希望するようになります。

そんなワークですが、前回の池袋セッションの終了後、大騒ぎしてた子供にその母親がつよく叱るというシーンがあり、母親も子供も感情が表出されていましたが、母親としては、人に迷惑をかけてはいけないという責任感があれば、こどもを叱責するのは当然ですし、かなり強い態度で感情的に臨むのも止むを得ないでしょう。

もちろん、状況が落ち着けば、その母親はその方法についての行き過ぎをこどもに謝ったし、子どももそれを受け入れることができて、問題はないのですが、その場にいた私たちにとってみれば、とても貴重な学びの場だったようです。

なぜなら、騒ぐ子供が迷惑だというなら、迷惑と感じた人が直接こどもに働きかけて、親子の利害のない立場で、説明する方がより社会教育的な場面になるし、子育ては母だけに責任を押し付けるべきではない、との考えを実践することになるからです。

だから、その母親の感情が動く前に、私が状況を察して、先に声掛けすべきだったように思います。そう言った意味では、ちょっと申し訳なかったかな・・・子供は放牧しようと言ってる私の力不足で、母親に負担をかけてしまったし。

そんなこんなで、子育てはみんなで・・みんながこどもひとりひとりを大切にしよう・・と、言いたい私。子供がさわぐから、子供は公園に入っちゃダメとか、事故が起こると、責任取らされるからと遊具が撤去されたり、ここはきけんだから子供ははいっちゃダメ・・・とか、塾に習い事に毎日追われて自由に遊べない子供たちがたくさんいたり・・・

とまあ、親も周囲の大人たちも学校も、子供の教育についてはうるさくいうけれど、自分達がこどもの自由とか成長のためのさまざまな条件を奪う、教育虐待と言いたくなるような大人たちが多いのも事実でしょう。ほんと胸が痛みます。

話は変わるけれど、今、上から指導されそうなLGBT案件、これもDSの家族文化の破壊を目指すためのプロパガンダと認識する私。性の多様性を認めることと、性の垣根をなくすることは同じことではありません。同性愛だろうが変態だろうが好きにすればいいし、私も好きにしてるけれど、同性愛の価値観を押し付けられるのはまっぴらごめん。

少し前にネットにあったけれど、クイアが学校に行ってお喋りするのは、当事者にとっていいことのようには思えないんだけれどね。だって、私はあれみて気持ち悪いという感情がおこるし、綺麗とも思わない、そばにいたくない・・という気持ちが湧くしね。好きなもん同士で好きにしてくれたらいいのにって思う私。