日本家族再生センター

自己信頼・・・できてる?

言葉は価値観やら意味を伴うけれど、同じ言葉でも、そこに付帯する意味や価値観は人によって微妙に違います。例えば犬に噛まれた人にとって「犬」という言葉は恐怖を伴う言葉になるけれど、犬と共に育った人にとってみれば「犬」という言葉は愛着を感じさせる言葉になります。

かように言葉の一つ一つがその人の固有な体験によって意味づけられるから、言葉が誰にとっても共通の全く同じ意味で、同じ感情を引き起こすというわけではありません。

私はそんなクライアントの使う言葉について、どういう意味で用いて、どういう感情を伴っているか、文脈から推論しつつ理解しながら聞いていくし、わからなければ、そこを確認していきます。その「◯◯」はあなたにどう言った感情をもたらしますか・・・・あるいは、その「◯◯」は△△という意味と理解したけれど、この理解で間違い無いですか?というようにね。私の一方的な意味づけでクライアントの語りを勝手に意味付けていくことにならないよう、自戒しつつ聞くようにしています。

とはいえ、難しいのは、クライアント自身が自分の発する言葉について、その意味と本人の感情が乖離してることがしばしばあることです。例えば「誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ、今すぐ出ていけ」なんて言葉を発する時に、「僕はしんどい思いをして働いてるのだから、もっと自分のこと褒めてよ、優しくしてよ」という感情は完全に蓋されていて、本人もそのことに気づきません。

気付くのはかあちゃんが「わかりました、おっしゃる通り、出ていきます、もう帰ってきませんから」と言って出て行ったまま、帰ってこなくなった時です。そのことに気づいた本人は「悪かった、言いすぎた、あれは本心では無い、つい口が滑ってしまった、もうあんなことは言わないから、帰ってきてくれ、頼む」という羽目になります。

言われた相手にすれば、「そんな軽い謝罪ななんてもう聞きたくも無い、自分の言葉に責任を取れよ」ということになってしまいます。家を出るということがどういうことを意味するのか、飯を食わしてるという言葉がどういう意味を伴っているのか、その言葉を発してる本人はまったく考えず、ただ、相手をコントロールするために使っているだけなんだろうけれど、その言葉は相手を深く傷つけ、言った本人への信頼感も崩壊させてしまいます。

ことは少々抽象的なことになりますが、人は言葉で世界を構築すると言われていますが(社会構成主義)ある物、事、事象、あらゆることについて、言葉が割り振られ、その言葉を用いて頭の中で世界を認識し構築するということです。そして、それは自分自身に対する概念についても同じです。

自分の身体や感情、思考について、さまざまな言葉で自分を理解している人は、しっかりした自己概念を構築していけるけれど、自分を知る機会を奪われ、感情を抑圧され、押し付けられた世間のあるべき人物像のみを是としてその言葉で無理やり自分を構築してる人が多いのも事実のような気がします。そんな人は、本当の自分の感情や思考を言語化する言葉を持ってないから、対人関係がうまくいくはずはありません。感情的になって、不一致な言葉を吐いてしまうというわけ。

自分は何者でどこに向かおうとしているのか、その実存的な問いかけを自らに問いかけ、確たる自己信頼感がある人は、他者の言動にいちいち刺激されることもなく、ブレることなく、すっくと立っていられるというわけ。

でもねえ、いまの学校教育も、社会も、本人の自己成長、自己決定を促すどころか、阻害するような仕組みになってるから・・・自分で考え、自己決定できる人が育たないんよね。その象徴がマスクだのワクチンだのというわけ。

私?私はねぇ、言葉はいくらでも湧いて出るので、不自由はしてません。自分を理解し、言語化する言葉はもちろん、他者や世界を理解し、構築する多くの言葉を持っているので、自分の存在や、他者との関わりで悩んだり辛い思いをすることもありません。また世界の虚構やら危うさもちゃんと見えているので、リスクマネジメントも難しく無いように感じています。

トラブルを抱えてる方は、心の問題でもあるけれど、言葉の問題でもあるかもね。

黒にんにくづくりに挑戦・・・あまりに臭いので、室外で・・・

観葉植物たちも少しずつ室内に取り込み中・・・