日本家族再生センター

遊びと育ち・・・ワークに権力構造を持ち込まないわけ

私の行うグループワークは、脱暴力のためでもあるけれど、そのために教育するとか、治療するとか、更生させるとか、認知や行動の変化のために、知識や権威、権力を伴う働きかけはしません。

そうした、ファシリテーターがコントロールを前提にしたワークにしてしまうと、参加当事者もまたコントロールする行動様式を強化してしまって、脱暴力の目的とは矛盾してしまいます。

ではどうするのか・・・教えるのではなく、気づきを促すこと。それぞれが自分を知り、他者を理解し、相互の心地よい関係作りには何が必要なのか、自分の立場での最善を理解することです。人それぞれ、立場も条件も違うから正解はありません。

なのに、ファシリテーターが正解を教えるのが正しいプログラムのあり方、みたいに理解している人は多いし、多くの専門家もその程度でしょう。だから加害者プログラムの有効性が低い、と結論付けられるのも当然です。

最近は日本でも加害者プログラムの必要性が言われていて、それをメシのネタにしたい人たちが、金の引っ張りどころを作るためか、あれこれ模索し始めているようだけれど、所詮支援のための支援、被害者支援の失敗?を繰り返すだけ、いわゆる加害当事者の脱暴力には寄与しないまま、利権としてのプログラムがスタンダード化され予算が使われるだけになってしまいます。

というわけで、昨夜の男ワークも一昨日の女ワークも、正解のない一見意味不明なワークを行いました。昨夜の男ワーク・・といっても参加13人中三人は女という不思議な男ワーク・・のお題は「妄想自己紹介」でした。このあたり、べてるの家の幻聴大会に似てるのかもしれません。

昨夜もある参加者からの質問で、このワークの意味を問われた時に、それぞれにとってどんな意味があったか、考えてみてねと、質問を場に返しました。すると・・いろんな答えが返ってきました。ふむふむ・・なるほど。私も大いに学びを得たわけ。そんな意味があるのか・・すごい。

社会構成主義的な視点に立てば当然のことだけれど、社会の価値観や行動様式にとらわれてるが故にその構造から問題が起こるとすれば、その常識や当たり前から外れたところに、問題の解があると考えるのは当然のこと。

だから、私の行うワークは、おバカで非常識、混沌とした不思議ワールドです。世間の常識からみれば理解不能かもしれません。それは、その方達が子供の頃、与えられなかった遊びの時間や空間、関係を再現することなのかもしれません。

一見、意味は見出せず、それぞれの感情や意思、行動が入り乱れて、混沌としたものでしょう。教室で行う、価値観の規格化、行動の統制、といったトップダウンの教育とは正反対の場です。

それにしてもワークは面白い・・・みんなよく語り、よく笑う・・。ワーク後も居残り組は、おしゃべりを続けてたり・・・

一昨日の女ワーク、スカイプ参加も合わせて十名ほど。ワークは妄想系、ワークの後のランチはお蕎麦。デザートはシフォンケーキアイス添え。

昨夜の男ワーク、女も含めて満員御礼