日本家族再生センター

ことばのお薬・・・

私のところにやってくる方達、DVやモラハラの加害者だったり被害者だったりすることは多いけれど、その多くの人たちが心に問題を抱えておられることが多く、DVやモラハラは表面上の問題であり、言ってみれば症状です。

もちろん、症状の下には認知やら価値観やらの問題もありますが、これも症状の一部、問題の本質はその人の体験やその記憶からなる情動や感情で、体験した家庭環境や社会状況が問題の根とも言えるでしょう。

要するに個人の問題は社会の問題です。「個人的なことは政治的なこと」私が昔フェミニストから学んだ言葉です。

そんな病的な社会・家庭で育つ中で体験したことから、様々な病理症状を抱えることになった当事者ですが、精神科医のところに行って投薬を受けても、神経をどうにかするだけで、体験も記憶もましてや家庭や社会の状況も変わるはずはありません。

だから、人間関係からくる心の病に薬は症状緩和になるだけで、治癒するわけではありません。何ヶ月、何年たってもラクにならない、フラッシュバックも治らない、投薬も入院も、カウンセリングも役立たない、そんな方が私のところにこられます。

私は医者ではないから、医療行為としての投薬はありません。けれど、それまでは誰も触れようとしなかった、病の根、家庭や社会の問題と本人の苦悩がどういう構造にあるか、そのケースごとにつまびらかにしていきます。

その際に大切なのは、本人の問題は本人に責任があるわけではなく、家庭や社会に問題があり、そんな家庭や社会の価値観に縛られる必要はないと助言することです。病んでるはあなたではなく、社会であると・・。問題はあなたに入り込んだ社会の価値観にあるので、その価値観を捨ててしまおうと。ナラティブセラピーでは、問題の外部化というけれど、さらに私は問題の社会化としてクライアントに伝えます。

自分は病んでる、自分は劣ってる、自分は治らない、自分は間違ってる、自分はみっともない、自分は恥ずかしい、などなどそれら全てが社会があなたに貼り付けた価値観であり、それらを取っ払ったらいいし、私はそれをやってきたよと、自己開示もしていきます。要するに洗脳状況を終わらせるためにモデルを提示するということ。

さらに社会や家族の価値観なんかに縛られる必要はなくて、自分の情動・感情を信じて、従えばいいというところにまで、対話を進めます。ここは簡単なようで難しい。社会の構造や常識の中でその地位や経済に依存しているセラピストには、自分のよって立つ価値観を否定することになるから、矛盾が生じます。その点、私は社会の構造や、価値観、常識に縛られずにセラピーを行うから自己開示しても私には矛盾は生じません。要するに、権威や地位、資格とかを持たずに、裸の私でクライアントと向き合えるという強みがあります。世のセラピストにはそれはできないでしょうから、自己開示はタブーにするしかありません。

そんな裸の私だから、クライアントは私の言葉を否定せずに受け入れてくれるのでしょう。そんな私とクライアントのやりとりは、言葉を用いますが、言葉の周囲には、言葉と矛盾しない非言語的なイメージも絡めます。視覚や、嗅覚、などなど・・

セラピーの中で、その方の人生と私の人生の物語を重ねて、その方がそれまでの体験や記憶をあらたな価値観で意味づけ、書き換えることが、ナラティブでいう人生物語の書き換えです。

人生の再著述という作業の中、本人が過去の人生の中で、与えられるべきなのに与えられなかった、言葉やそれに乗せた愛や思いやり、これらの欠乏症として今の困難があり、その欠乏していた言葉を一つ一つ処方していきます。副作用に気をつけながらね・・。

1時間くらいのカウンセリングでもその言葉がかなり有効に作用することは少なくないし、それまでの症状がおさまり、本人もその軽快した感じを伝えてくれることは少なくありません。緊張した表情が安堵し、微笑みがでてくるし、呼吸が深くなり、体全体も緩んでいきます。もちろんそれは症状緩和に過ぎないのだけれど、そのカウンセリングを重ねることで、本質的な問題、家族や社会との関わりのついても新たな自己概念を構築することでその関係を変えることに至ります。

昨日は三件のカウンセリングだつたけれど、そんな人生の再著述に付き合わせてもらって、私もその物語をともに楽しめたいい時間にできました。

けれど、今日のグルナイの仕込みができなくなったよー。これから頑張るとしますか。