日本家族再生センター

どっちがどっち?    妄想と現実と

私は常々、家族ファンタジーとか恋愛妄想とか書いてるけれど、なかなかその意味は伝わりません。実際に家族してる人、恋愛の只中にある方には、その状態が妄想とか言われても意味不明になるのもわからんでもありません。

けれど、家族とか恋愛とかいう概念はそれぞれ意味づけられた言葉によって頭の中で作られています。「人は言葉によって世界を構築する」と社会構成主義では考えられています。

その言葉の意味やら数やらを共有する人たちによってある一定の集団ができ、それが家族になったり会社になったり国家になったりしているわけ。けれど、言葉の意味を同じくしない人と人が関わるとどうなるのか・・・メリーと太郎が一緒になったらどうなるのか・・「おおっ、なんで毎朝パンなんだ、たまには味噌汁くらい作れよ」「なんであなたは自分で味噌汁作らないで、私のパンにケチつけるのよ」・・・・etc・・・・なんでなんで・・・メリー太郎だけでなくて、たいていのトラブル関係には、この「なんで?」が発端になってます。

いずれ、理解できない相手の言動に対して自分なりに自分の価値観に基づいて理解しようとしてしまいます。「俺を馬鹿にしてる」「私を支配しようとしてる」・・・・・etcもめるはずです。

多様な言葉や文脈を理解する人と、そうでない人の思考の有り様や感情の有り様は随分と異なるようです。問題を起こす人は理解する言葉や文脈の多様性がなく硬直で狭小、いわゆるこだわりが強いとか執着しやすい人として理解されます。対人スキルも低く問題が起こりやすく、本人も周囲も辛い状況になりやすいようです。

何れにしても私たちはひとりひとり妄想の世界を生きていて、その妄想をどれだけ多くの人とどれだけ深く共有するか、それだけのこと。いずれその妄想が現実となり、飛行機も飛べばロケットが月に行ったりもします。

けれど、その妄想を誰とも共有できない人は、精神異常者として隔離されたり、犯罪者として処罰されたりしかねません。家族間でも同じ、妄想を共有できなければ、片方は加害者として逮捕拘留されたり子供を奪われたり、被害者として自由や尊厳を奪われたり・・・医療にしても司法にしても、そこにある法律や制度の問題だけではなく、人の行動に関わる心理的社会的な問題にも理解が及ばなければ、本質的な解決は難しいでしょう。

 

先日も子供の問題行動のことでカウンセリングをしたけれど、子供の問題としてあるのは表面的なことで、問題の本質は両親の価値観のズレからくる葛藤がこどもの症状として現れているだけ。むしろ症状としてでるのは子供が生存する有機体としては正常に機能していると言えなくもない。

で私は「こどもは問題ないし、ほっといてあげてね、パパとママがちゃんと話し合えたらこどもの問題はなくなるし」と助言させていただきました。

また別のケースでも、そのクライアントの幻覚・妄想を現実ではないからと否定するのではなくて、その幻覚・妄想を現実のものとしてクライアントと対話したら、問題はなくなるかも・・と提案してみました。

それらのクライアントの言葉でできてる世界を理解することがセラピーになるというのが、社会構成主義としてのセラピー、ナラティブアプローチです。