アサーティブとか、自立とか、自己主張とか、言葉だけはかなり流通してきたけれど・・中身が理解されてないよねってことが多いと感じる私。それはセラピーの場でも、アカデミズムの中でも、国の最高権力の場である国会でもみんな同じ。
「国民の皆さまには丁寧にご説明していきます」と言いつつ、何も説明しないあべちんを首相に選ぶ国民ですからねぇ。嘘でも、違法でも、権力者がいいといえば通ってしまう、モラルの低さ、人権感覚のなさには、呆れ果ててる私です。
セラピーに関しても知識やスキルだけが飛び交ってて、中身がまったく抜け落ちてるように感じるのは私だけ?
積極的傾聴が、カウンセラーは自分のことは何も話さずただ、聞き続けることと、平気でロジャースを解釈するカウンセラーがいたり、オープンダイアローグの技法は立派な先生に学べると真剣に考える援助者がいたりするするのも、同じこと。
ここには、知の権威に従属するというセラピスト自身の価値観の問題に無自覚というセラピストの現実があります。
クライアントをコントロールしないということは、セラピストは権威や知識で支配しないということ。このことを突き詰めると、クライアントとセラピストの関係が、権力構造にならず、相互の平等と自由に基づいた対話のできる関係であるということ。
そのことを理解できたら、セラピストは権威者の智を学ぶのではなく、クライアントとの対話の中から、自ら学べばいいと思うのだけれど・・・。すべてのセラピーは、世界で一つの回復の物語。技法や知識はとんかちやのこぎりと同じ、ただの道具です。道具をどのように使うか、それには答えはありません。ひとりひとりのクライアントとの自由な対話の中にしかその答えはありません。
アサーティブとか自己主張とか、自己信頼という時それを権力、権威で阻害してるのがセラピスト自身であるとしたら、そんな自分を理解しないでいくら言葉を覚えても無意味。その自分を理解するには、専門家の上からの言葉や知識に頼るのではなく、クライアントに投影される自己の姿と向き合うことが必要でしょう。
そう、自身の当事者性に気付き受け入れる作業が不可欠。けれど、自身の当事者性を理解し、そこから本当の支援のできるセラピストへの道のりを提示しているのは、おそらく私のでっち上げたメンズカウンセリングだけ・・のような気がします。
セラピーに権威や権力を持ち込まず、自身もそんなコントロールパワーに依存しないで生きて行く勇気や、あるいは生きていけない恥ずかしさを受け入れる力を持たなければならない、そんな厳しいセラピーがメンズセラピーです。(メンズカウンセリングと言ってもほぼ同義語。)厳しすぎて、よほど苦労した当事者しか、その門をくぐることはできそうにないみたいです。なんちゃって。
今日は二件のカウンセリングの他は明日のグルナイに向けての仕込みでした。
おさつタルトと大根の甘酢漬け
自家製鶏ハムと茶碗蒸し