日本家族再生センター

怒ろう・・・感情の受容と言語化

私は子供の頃からしばしば怒りを暴力的に表現する人でした。それは学校でのこと。納得できない教師の指導にはいつも怒りを向けていたように思います。

三年生の時、担任の小松センセは「あんたは欲求不満の塊やね」と私に言ったけれど、欲求不満という言葉の意味を知らない私でしたから、その時は喧嘩にもなりませんでした。後から思えばそれもそうだと納得でしたが、「お前がムカつくんじゃ」と言いたかったんだろうと思います。

勉強もスポーツもできない小柄でアホの私が人に支配されずに暮らすには、暴力的な言動が必要だと感じてたしそのための怒りの感情は大切なものだったように思います。

けれど、やがて怒りでは解決できない問題・・・実存という問題を抱えて不安に支配される思春期から青年期の私でした。

不安から解放された三十代の私は、あいからわず怒りで自分を支えていましたが、自己受容が進むと怒りの様子も変わっていきます。自分を守るためでは無く、世界を変えるための果てしない物語を語り続けるエネルギーとして怒りを用いるようになりました。

怒りをどこに向け、どのように表現するか・・・このことは大切なこと。アンガーマネジメントにも共通することだけれど、さらに私は怒りの感情を個人の問題に還元せず社会病理としての解決策として考えます。すなわち、怒りを上手に扱うということにとどまらず、怒りを適切に用いて社会を変える、そんな怒りの用い方をセラピーの中で提唱します。もちろんテロ志向では無く「テロリストにならずアーティストになった」敬愛するニキ・ド・サンファールのように、怒りのエネルギーを愛のエネルギーに変えて、世界を差別や抑圧から解放したいと妄想するのです。

今日の女ワーク・・家族問題で傷ついた女たちの多くは感情・・特に怒りを抑圧することを強いられ、その抑圧のプログラムが心を支配しています。で、今日私が用いたお題がパット・パルマーの「怒ろう」でした。

怒りをため込んで、病理化したり、自分に向けて自分を傷つけたり、爆発させ誰かを傷つけたり・・・そんなことにならないよう、怒りを受け入れ怒りの原因を理解し、怒りとして毅然とけれど冷静に言語化する、そのことを学びました。自分を大切にし、世界を変えるために怒りはあるのだから。

今日の女ワーク、リアル参加は少なくて、スカイプ参加の方がたくさん。だもんでワーク後のおしゃべり会もなくて、私はちょっと自由時間ができました。

ということで、趣味のお買い物も。春に向けてプランターの整備です。

先月寄せ植えにした、白妙菊、彩ビオラ、アリッサムはそれなりに活着してくれました。

冬咲きクレマチスはそれらしく咲きました。

先月に続いてサクラソウとビオラの苗を買ってきました。それに「あかね」という品種のボケも。買ってきました。

春に咲いてくれるかなボケのあかねちゃん