日本家族再生センター

ああっしんど・・・正論・常識・当たり前

昨夜は遠来の方や女性も含めてのこじんまりとした男ワークでした。ファシリはテルさん。お題は「マイルール」でした。

私の定番のワーク「マイルール」ですが、良好な人間関係を維持するにはそれなりの約束事が必要です。けれど、そのルールは納得され合意したものか一方的なものかによって随分と意味合いも変わります。

私は自分の価値観や行動は私が決めないと気が済まないわがままな人ですから、人に指図されたりコントロールされるのは大嫌い。それは子供の頃から今に至るまで変わりません。

けれど、これは私の価値観(マイルール)であって他者に押し付ける気もないし、私が正しいのだと言ってるわけではありません。

私に関わる人たち、家族に対しても同様、私は私の価値観を家族に一方的に押し付けるつもりはないし、家族に支配されるのも嫌です。

連れ合いと一緒に暮らしだした時、私が始めに連れ合いに言ったのは「私はあなたを養わないから、自分で働いてください、ダブルポケットにしましょう。必要な経費は折半して、あとはそれぞれが自由に管理しましょう」という約束です。家事労働も折半して私は料理を連れ合いは洗濯を家事労働として引き受けることにしました。

一応、このルールは合意されたものとしてますが、合意できなければ一緒に暮らすことができなくなるだけのこと。私が一方的に押し付けたものではありません。今から思えば、四十年前のあの時代に、連れ合いもよくこの提案に乗ってくれたものと感謝です。

あの時、世間の常識、男が働いて家族を養う、ことにとらわれていたら、今の私はないし、家族がこれまで維持されてたとも思えません。けれど、どうして私がそんな提案をしたのか・・それは私がアルコール依存で、不安障害を抱えて、自分の将来に自信が持てないし、家族を私の軛(くびき)にしたくなかったし、家族を私の破綻に巻き込みたくなかったから。

私が普通に勉強できて、普通に社会適応して、普通に働く自信があれば、そんな約束なんかする必要もなかったんだろうと思うけれど、そうではない私が私なんだから仕方ありません。

ただ、そんな仕方ない私を私は受け入れてたし、虚勢を張ったり、無理して自分に鞭打つこともしませんでした。ダメな私でいい、こんなあるがままの私と共に暮らして欲しい、と連れ合いに言えたのは、それなりの自己肯定感があったからでしょう。

話を昨夜のワークに戻しましょう。テルさんはそれぞれがこだわってる、「マイルール」と「フアミリールール」について書き出してみるというお題を提出しました。そしてそのこだわりのルールについて何人かでシェアしてみました。

シェアしてみると、夫婦間の対立や葛藤も、夫婦間のルールがきちんと合意される機会もなく、一方的に押し付けたり押し付けられたりした、納得できないものであることに由来するとの気づきが得られます。押し付ける方は、当たり前だっり責任感だったりするから、自らの問題には思い至らず、受け入れず従わない相手の問題と捉えてしまいます。

家族の暮らす状況は十人十色、すべて違います。ベストな関係や家族スタイルはそれぞれでちゃんと話し合って、お互い納得できるファミリールールとすべきで、そのファミリールールと、それぞれの個人的なマイルールとはきちんと弁別する必要があります。

昨夜は別居中の方も何人かおられて、このあたり新たな家族関係を再構築するには大切なことと、気づいてくださったことと思います。加害者が反省して謝罪して、自らの意識改革をするだけでは解決しないんよね。

家族問題は、対話スキルや自己肯定感の問題でもあり、それは社会的な背景を伴うから、いわゆる加害者の意識改革だけで解決することはありえないし、逆に法律や制度だけいじっても、解決しないってこと・・・なんだけれど、そのあたり、広範でかつ深い認識で問題解決に当たれる専門家や支援者がほとんどいないんよね。

嗚呼っそんな支援のできる支援者育てたいー。複合的な当事者性の支援について学びたい方、ぜひこちらの扉を叩いてくださいねー。

 

ワークのあとは、シェルターにお泊りの方に晩御飯を用意しました。塩サバ、鶏霜造り定食揚げ出しとうふ付きってところ。