日本家族再生センター

死にたくなる時

ずっと以前私の関わった方で何人か亡くなられた方もおられます。一度来談されたけれど、その後ずっと来られなかった方、一度グループワークに参加したけれどそれっきりの方、など深い関わりにならなかった人たちが数名おられます。

私がカウンセリングを引き受けておられた方、この方は鬱を患っておられたし精神科医の治療も受けておられた方だけれど、一度パニックになられた時は私への電話でなんとか不安を抑えられたけれど、多分二度目の時は私に繋がれなくて、そのまま既遂になりました。

ギリギリのところで私に電話してきて、救急搬送されて未遂に終わった方も何人かおられます。

最後のメッセージを最後にさせるのか、最後にさせずに済むのか、ギリギリのところの分かれ道はつながってきた方の対応の如何にもよることと思います。

生きていけない、死にたい、不安でどうしようもない、先が見えなくて怖い、何をやっても無駄、などなど、死にたい人たちは、切々と生きることの不安や恐怖を語ります。

それを聞いた方が「死んじゃダメ、命を大切に、辛いのはあなただけじゃない、頑張って、甘えちゃダメ、それくらいどうってことないよ」などなど励ましの言葉を語れば当事者はますます追い詰められて、さらに死にたくなってしまいます。

死にたい思いにとらわれている方は生きていくことの不安や恐怖と、死ぬことの不安や恐怖のバランスの中で生きています。死ぬことの不安より生きることの不安が大きくなれば死んで不安から逃れようとします。

この生きることの不安というのは、根源的な情動部分の働きなので意識でなんとかなるものではありません。生育の中で存在のあるがままを受容され共感の中で育った子供と、虐待やコントロールの中で育った子供は、自己概念と情動という意味では随分とことなる神経プログラムを構成しています。成長して無条件の自己信頼をもつ人と条件付の行動で自分を支える人と随分と情動も行動も異なります。

強い自己信頼、自己肯定感をもつ人は様々なストレスや逆境の中でも自分の存在の意味を失わないけれど、条件付で自分を支えている人は、他者の評価や承認もなく自分の存在する条件を失った時は生存する意味も見出せなくなり、大きな不安にとらわれてしまいます。

ですから、死にたい人に意識部分での正しい言葉を使っても無駄というもの。死にたい人には「死にたいよね、そこまで死にたくなった理由を知らせて」「死ぬのは止めないけれど、死ぬ前に電話してね」と伝えるのが正解かもしれません。そうではないかもしれませんが、下手な励ましよりマシでしょう。

こんな私はクライアントに死にたいと言われても、特に驚きもしないし、揺らぐこともありません。たんたんとそんなお気持ちに寄り添うだけ。少しゆとりがあれば、依存先を一緒に考えます。

死にたいけれど生きている方、その不安から逃れるために、なんらかの依存でしのいでいる方も少なくありません。アルコールやドラッグ、セックスやギャンブル、自傷行為や、摂食行為、様々な刺激で不安から逃れています。逆に言えば依存先があるうちは死ななくて済むということ。

もちろん私自身を依存先にするのもOKとしています。がその場合は枠を設けないと、私の生活が成り立たなくなります。

一緒に不安の根源を探り、育ち直しや生まれ直しを図るわけですが、ここは意識部分、知識の問題ではなく、より深い情動に直結する身体感覚に基づいたセラピーを行います。

美味しい、楽しい、気持ちいい、安心、などなど感じれるのであれば依存的な行為も回復のためには良しとしています。生きることの不安や恐怖から解放され、生きることの喜びや楽しさを何度も体験することで、情動部分にプログラムされた不安の回路を減衰させ、安心の回路を再生することが可能となります。

こんなセラピーを行う私はもちろんかなりタフだし、少々のストレスで弱ることもありません。その力を維持するためにも・・身体能力は大切・・ということで昨日は久しぶりのランニング。ひと月ぶりでしょうか。さすがに筋力も落ちてて、体も重くて。歩く程度のスピードで8キロほど疎水を走りました。

 

この時期、疎水はお掃除のためにドライアップしています。

 

お掃除は車と放水銃で・・

 

 

花の少ない時期・・ヒメツルソバは満開

 

水仙は走り咲き

 

それに昨夜は男ワーク、今年初めてのワークには新規参加の方もいて12人の集まりとなりました。さすがにこの人数になると近況報告だけでも一時間以上かかります。

ワークはインタビューゲームと素敵な私探し・・でした。