昨日の朝刊の記事
近年は、内戦や異常気象の激化で世界の貧困状況が悪化してきています。世界で八億の人たちが飢餓線上の生活を強いられていて、その方たちは状況の悪化でたちまち大量の餓死者になってしまいます。
こんな世界状況なのに、何十億という個人資産を持つ人たちもまた同時に世界に存在します。この圧倒的な不平等がなければ、誰も飢餓に苦しまなくて済むのだろうけれど、その不平等がなくなるどころか、さらに貧富の格差は拡大しているのが現実でしょう。
たまたま、日本に住む私たちは、そんな厳しい現実を実感することもなく、遠い世界の無関係なお話・・と心に蓋をして、目先の豊かさを日々追いかけているのかもしれません。
けれど、じつは彼の地の不幸も私たちと無関係ではなくて、貧しい国の貧しさがあるがゆえに、私たちの一見豊かな暮らしが維持されているというのも事実です。
事実を知らされなければ、すべて他人事で済ませられる私たちのメンタリティーはどこから来ているのでしょう。そしてその構図は世界の問題だけではなくて、私たちの身近な様々な問題ともリンクしています。
DVや引き離しはもちろん、精神医療や障害者差別、国籍や出自、性的嗜好性などあらゆるところで、当事者になって初めて気づく様々な差別があります。
知らなければ、すべて他人事、問題は社会にあるのではなくその個人にあるから、その人の努力不足、その人の運不運、と簡単に終わらせてしまいます。そのお気楽さは、社会の差別を容認し、不幸な人たちを増やしてしまいます。
ある日当事者になって、そのことに気づいてもそのときは、声を上げることも抗うこともできず、虫けらのように扱われ、最後はゴミのように捨てられてしまいます。こんな歴史を人類は何度繰り返してきたことでしょう。
そして今、その不幸は世界的な規模で進行しつつあるのかもしれません。私たちが将来貧困、飢餓にあえぐことだけではなくて、今ある世界の貧困に目を向けていたいもの。さて私たちに何ができるのでしょう。
私は、まず、私の生き方、暮らし方を変えていきたいと思っているけれど、それは苦しさを我慢するのではなく、無駄な消費や労働を減らし、真実の豊かさや自由を求めること、のような気がします。今の所、少しずつ、達成しつつあるのかな。