日本家族再生センター

タフラブ・・・手放す勇気を

一昨日は「依存」について書きました。人はなんだかんだと言いながら何かに依存して生きてるってこと。仕事、お金、権力、家族、さらにアルコールだの、タバコだの、セックスだの、ギャンブルだののリスクのあるものもあるし、覚せい剤、大麻、性犯罪、などの犯罪となるものもあります。

かように依存と言ってもいろいろあります。仕事やお金がないと生きていけないと多くの人が考えるでしょうし、社員や家族に依存し部下や家族を権力でコントロールするのも、ごく当たり前といえば当たり前。けれど、ハイリスクな依存やら病的な依存でしか自分を支えられない人もいるし、そんな人に依存は悪いことだからやめなさい、と善意や正義感で指導するのが大好きな援助者も少なくないでしょう。

けれど、やめたいけれど止められないのが依存。止められないことで、当事者の自己嫌悪は増して、さらに依存に頼ってしまいます。逆効果です。ですからやめなさいというのではなくて、やめられない困難にある当事者の思いに寄り添い、どうすれば止められるか、一緒に考えるのが、責任ある援助者の態度でしょうか。

でもねえ、それは大変なこと、クライアントのリスクを共有することだし、へたすれば共犯者にもなりかねません。やめなさいと言ってる方が援助者にとってどれだけ楽で、安全か。でもねぇ、そう言われてもやめられないから、依存は終わらないし、やめなさいということで、お金が回るとしたら・・・お互いやめられないよねえ(笑)

もうひとつ依存でやっかいなのは、相互扶助と勘違いしやすいこと。お互い依存しあって縛りあいコントロールしあってて、ちっとも楽そうではないのに、離れられないってやつ、いわゆる共依存。

お互いが自立してて、一人でも生きていけるけれどより豊かに生きるために誰かと助け合う、いわゆる相互扶助は、生きていく上では意味ある選択でしょう。お互いの距離や関係はお互いの自由意志と対話で決められる。この関係は共依存とは似て非なるもの。

共依存はもちろん、当たり前の依存であっても、何かに依存するのはリスクを伴います。できれば依存せずに生きていけたら、それは楽だし自由で便利。けれど、依存生活が続くと依存が当たり前になって、いざ依存が断たれる・・・倒産、事故、病気、暴力、借金、浮気、離婚などで、依存対象がいなくなったときはさあ大変。

生きていけないほどの苦悩を感じてしまいます・・・だって依存してんだから。そのギリギリの苦悩の表現はしばしば、他人の哀れみや同情を買い、何かしら手助けしてやりたくなるのは人の気持ちとしては当然。それが援助者であってもなくても。この感情を私は「情けない者好き」とも言ってますが、他者に優越することで、自身の存在の意味や優位性を確認します。情けない者好きは、情に篤いとか、面倒見がいいとか、優しいとか見られやすいけれど、実は自己肯定感が低い人がそのようになりやすいとも言えます。

そんな情けない者好きは、情けない者が自立して自分を必要としなくなるのは困るので、自立を妨げるし、しばしば情けない者で居続けるように依存させる行動を取ってしまいます(イネーブリング)。

この相互依存的な関係を絶ち、相互に自立するためには、かなり厳しい作業が必要なのも事実です。とはいえ、厳しいだけでは絶望的な心理から抜け出せるのも難しく、回復もままなりません。本当の回復、問題解決を望むなら、本人はもちろん周囲の人たちも、イネーブリングをやめ、新しい行動や関係に意識や行動をシフトさせること・・・これはこれで大変だけれどその冷めた判断を「タフラブ」と言うらしい。本当の愛情・・ということかな。AAに関わる当事者から教えていただいた言葉です。

というわけで、依存的な価値観や、相互依存的な関係から他者なり他の価値観や行動様式に依存対象をシフトさせるというのが私の方法。依存はやめろとはいうことはありません。

お金がないと不安な人はお金に頼らない暮らし方や楽しみ方を伝えるし、権威、権力大好きな人には、そんな権威や権力ではほんとの信頼も尊敬も得られないことを伝えます。共依存関係の方には、相互に自立できるよう、責任の線引きをはっきりさせていただきます。

何れにしても、クライアントが、縛られている執着から解放され、一人の独立した人格として自由に生きていくこと、他者との対等で自由な関係を作ること、そしてみんなで幸せに生きていくこと・・・が私のセラピーの目標でしょうか。

昨夜はちょっと時間もできたので、ひと月ぶりにランニング。外は一度の厳しい寒さ・・・だけど、動きたい。

大騒ぎされた月食から二日遅れのおぼろ月

結局ゆっくりと無理せず走って九キロほど。それでも今日はけっこう体にきてる・・ひと月走らないと、確実に体力落ちてるね。もっと走りたいー。