日本家族再生センター

発達障害ですが・・何か?

私にお話を聞かせてくださる方たちの中にいわゆる発達障害で悩んでおられる方やその家族の方も少なからずおられます。

アスペルガーだのADHDだのLDだの、その言葉だけはみなさんけっこうご存知で、・・・・だから私は仕事がうまくできなくて悩んでるんです・・・・だからうちの子は問題行動を起こすんです・・などなど、発達障害が原因で問題が起こってると考えておられます。

確かにそういう理解の仕方も間違いとは言わないけれど、それは一面の事実にしか過ぎません。別の視点で理解することも可能です。

人間であれ他の生物であれ、それぞれを形作る形質があります。その形質は多様な遺伝様式により発言したり環境への順応という形で発言したりもするでしょう。たまたまその形質が適応的だったり偶然の結果だっりして淘汰されなければ生存確率が高まり、その形質がその種に保存されます。

様々に変化する環境に種として適応し生存確率を高めるには、多様な形質を保存していく必要があります。そういう意味ではどんな形質であれ無意味なものはありません。

話を戻しましょう、発達障害が社会適応するには不利な性質で矯正・治療されるべきことと考えるのか、多様な個性を不適応としてしまう硬直的な合理社会が人類にとって不健全な病的状況だと捉えるのか、それはその人の見方にすぎません。

幸い、私は今でいうLD児だったようで、いつもセンセとトラブってました。けれど、私はアホだけれど、私が問題だとは思ってなくて、センセが問題だと確信していたので、確信をもって「問題」児をやってました。

その確信はやがて、社会がおかしい、という確信につながっていくのですが、そんな社会に不適応な自分がどうやって生きていくのか、その孤独と不安は青年期に差し掛かる頃の私を「実存不安」にしてしまいます。

その不安からくる発作は恐怖そのものだったけれど、それから逃避するためにアルコール依存になって生き延びていくわけですが・・・・

三十前に宗教的実存としての自己を見出すことで、社会を相対化しさらに大きな世界に適応し、自己実現やら自己超越やらを獲得していくわけです。ですから、いまは、社会に適応できないのではなく、適応しない自分として豊かで満たされた自分を享受しているというわけ。

ここに至るプロセスには確かにいろいろあったし、原点はLDであり不適応な反社会的な存在としての自己でしょう。

こんな私が確信を確信を持ってクライアントに伝えるのは「問題はあなたにあるのではなく、あなたを理解しようとせず受け入れようとしない社会にあるから、社会に適応できない自分ではなく、適応しなくてもうまくやっていけるかもしれない自分として、あらたな自分の姿を見つけるのもいいかも」ということ。

私はひとりでやってきたから時間がかかったけれど、私が見守り役としてかかわれるあなたなら、その変化はもっと早いよね、と。

あの人もあの方もあの子も・・・みんないい人たちばかりだし、幸せになってほしいものです。社会に適応するのはほどほどでいいしね。

今朝自宅の掃除で落としたスズメバチの空の巣。昨年の巣です。

 

中はこんな様子