日本家族再生センター

先生はクソだ・・弁護士もドクターも

いろんな当事者の支援をする中で、司法は家庭問題にはほとんど役に立たないというのを実感する。法的に白か黒か切り分けて金のやり取りをするだけ。

しかもやり取りやら断罪の元のネタは大した証拠もなく、嘘に誤解に悪意に満ちた言葉の羅列。

その虚構の中で先生と言われて多額の金をやり取りして上前を掠めとる・・・合法的だけれどやり口はヤクザ屋さんと変わりない。

昨夜もそんな世界に疲れ果てた男性の心を聞かせていただきました。少なくとも彼は、相手や相手方弁護士の理不尽な対応についても真摯に応じてきたし、その怒りや悲しみはまっとうなもの。自身を苦しめる感情にしてほしくなくて、ささやかながらも寄り添わせていただきました。

一夜明けて、今朝の新聞にはずっと以前私の関わってた男性が事件を起こしたとの記事があり、さもありなんと痛々しく読ませていただきました。

事件化する彼の心理の問題もあるけれど、その心理の問題だけに還元するのも不可能。司法や行政、弁護士やらの行動はどうだったのか、そちらの問題もあるはずだけれど、権威権力を持つ者の問題はないことにされてしまいます。

これは司法の問題だけではなく、医療でも教育でもすべて同じ現象があります。権力構造の問題です。それを象徴するのが「先生」ということば。

先生になりたい人や先生に擦り寄りたい人たちばかりの世の中で、先生はクソだと私が言い続けるのは、そういうこと、権力構造の問題なのです。

知識や能力を私は人をコントロールする権力にしたくはなくて、あえて、パワーコントロールを手放した当事者視点の支援を続けています。

家族問題で傷ついてる多くの当事者にあえて伝えるとすれば、力でコントロールすることを是としてパワーゲームで敗れたとして、理不尽な戦いを仕掛けた相手に怒りをぶつけても、自分の弱さに絶望しても、何も変わらないし、救われもしない。

自分がなぜパワーゲームを選んだのか、なぜ敗北して傷つくのか、あるいは勝ったはずなのに辛いのか・・深いところで問題を見て欲しいと思う。

自分の存在と世界の有り様と・・そのあたりのことを再検証することで、すべてから解放されるのかも。死を選ばずとも、自己概念を再構築することができれば・・・。

 

一年前の今ころ疎水ランニングの途中でパチリ