日本家族再生センター

死んじゃダメ・・その判断は誰がする

ここ最近のケースだけではないけれど、以前から医療における過剰投薬が気になってしまう私です。特に精神薬はその判断基準も曖昧で、何のための投薬か疑問になるケースに関わることも少なくありません。

しばしば勝手に服薬をやめたり、減らしてはいけない、と正論のように語られるけれど、その言葉の根拠は示されていません。暗に医者の判断は間違いないのだから、と言う前提に立っている根拠なき正論でしょう。

特に精神薬の投薬に関してその判断基準は、精神(心)の状況を見てということでしょうけれど、そもそも心の状況を客観的に数値化することはできません。心は主観の世界で、一人一人一分一秒状況は変わります。

五分しか話しない医者に、患者一人一人の状況に最適で間違いのない判断が出来るとは、私には思えません。あくまで医者もさじ加減で主観的に判断していると考える方が現実的。

こんな状況の中、精神科医は患者に投薬し入院させることで医療システムを維持するのだから、利益のためには投薬はやめられないということにもなっているでしょう。

また、投薬せずに事故や事件が起こって責任追及されるより、投薬で患者が鎮静し、とりあえず生きていることの方が安全な状況、と言えなくもありません。

けれど、こんな状況、私に言わせれば頭を麻痺させて絶望すらできない魂の屍にしているだけのこと、本人の人生でも自己決定でもありません。

絶望するしかない状況であれば、人は絶望し死を選ぶのもまた人の心の現実です。そんなクライアントに対して、絶望の物語を共有し、あらたな希望を見つけるまで、ともに闇を歩んでいくことのできるセラピストでありたいと思います。そうすればクライアントは生きることに自身の尊厳を見出せるのだから。

死んじゃだめとか、自殺念慮がなくなりませんね、とか他人事の正論でクライアントを追い詰めて、より絶望の闇を深くすることは私にはできません。

正論はクライアントの回復のためにあるのではなく、セラピストの保身のためにある言葉、と私は理解しています。今日もある方とお話ししていて、そんな思いを強くしました。

この腐った世の中で、激しく傷つけられ孤立して、誰からも希望を奪われてしまった人は、自らの尊厳のためには死ぬしかなくなります。

これは死にたい人、死んだ人の問題ではなく、そんな当事者を作り出し追い詰める、世の中の仕組み、その世の中に依存して、当事者を傷つける世間の常識的な人々、の問題でしょうか。

この年の瀬、生きるのが辛い人にはほんと辛い季節。良いお年をお迎えできるはずもないし、こんな自分の存在する意味もない、すっと消えることができたら・・なんて考えるんだろうけれど・・

でもほんとは大丈夫・・生きてるだけでもいろいろ意味があるってことなんだけど、一人じゃそのことにも思い至りません・・そのことを可能にするのは精神薬ではなくて・・・ともにあること、思いを分かち合える仲間・・そしてそんなセラピーでしょうか。

そんなセラピーを可能にするメンズカウンセリング・・・年明け早々元旦から二日までみっちりと、夜を徹してのお泊まり研修です。どんな学びになるのやら・・・わくわく。

 

 

お泊まり研修のために準備した、アップルポテトパイと資料