日本家族再生センター

死にたい女・死ぬ男

先日の座間の殺人事件の被害者の多くは自殺願望をほのめかしてた女たちで、容疑者は自殺サイトで知り合った被害者を自宅に招きいれて殺害しています。容疑者は「本当に死にたい女はいなかった」「同意なく殺した」と言ってるとか。

このあたりのことについて、私なりの考察をしてみたいと思います。というのも、私は、「死にたい」「生きていけない」と訴えるクライアントにもしばしばであいます。どちらかというと、そのように訴えるのは女性が多いのも事実です。

そんな女性も私のセラピーを重ねるうちに、死にたいという言葉を使わなくなり、別の悩みに悩みが変遷していきます。死にたいと言って、実際に亡くなられた女性は私のクライアントではおられません。

逆に亡くなってしまったのは「辛い」とは言っても死にたいと訴えることのなかった男たちです。この十五年ほどのグループワークやカウンセリングで関わった男たちのうち五人がなくなっています。いずれも、私との連絡がないところで、亡くなられています。

彼らは厳しい状況が続いて孤立し絶望の中で発作的に死を選んでしまったのだろうと思うけれど、生き延びる女たちとの違いはぎりぎりのところで人に助けを求められるか、あるいは助けを求められる相手と繋がっているか、というところでしょう。

そんな私の体験から、座間の被害者の心理を読み解くとすれば、死にたいという言葉を受け止め、しっかりと理解してくれる相手を求めていたというパラドックスです。本当に死にたいのなら、わざわざネットで誰かを探す必要はありません。死にたいという言葉は「今までの私では生きていけない」「誰か私を助けてほしい」という抑圧された本来の自分の生への渇望の言葉なのでしょう。

ひきかえ、困難を抱える多くの男たちはギリギリのところで無様で哀れな自分を人様にさらすこと自体、余計に自分を貶めてしまうことになるから、死という出口に突っ走ってしまうのかもしれません。日本では年間おおよそ24000人が自殺していますが、男は女の二倍の自殺数というのも、男の抱えるジェンダーの病が影響しているのでしょう。

あるがままの人生を許さない社会の抑圧構造が「死にたい」と言うしかなくなる人を作り出すのであって、死にたいという女たちの問題ではないでしょう。ましてや、追い詰められて死を選んでしまう男たちの個人的な問題でもないでしょう。

白石容疑者は、そんな女たちを言葉巧みに誘い出して殺害することでしか、自分の心の闇を埋めることができなかったのだろうけれど、そんな白石容疑者がなぜ出てきたのか、それもまた、人の命や思いよりも、利益を優先する暴力的な経済の仕組みが彼の人に対する尊厳を崩壊させてしまったから、と思えてなりません。彼を死刑にしてもその構造は変わらないから、次々事件は起こるでしょう。

生きる死ぬの動機や行為についても、そこに女と男のジェンダーの病が異なる症状を呈しているように思う私です。そこをなんとかしたいですね。

話は変わって・・と、今日は女ワーク。お題は「私の取り扱い説明書」でした。それぞれ自身の欠点やら長所やらを客観視しつつ、他者との関わりの中で、そんな自分をうまく表現できたらいいよねっていうトレーニングです。

常識やら制度やらからみるといろいろ不都合なところもある自分だけれど、そんな自分だからこそ、存在することに意味があるのだ、と思えたら、自分を責めて苦しくなる必要もないし、他者の承認を求めて自分を殺す必要もない。

当然、今日のワークでのお話は座間事件にも及んだけれど、心の闇は誰の心にも多かれ少なかれあるわけで、そのことに気づいた当事者と全く気づかないで、問題を起こす当事者と、たまたま問題が表面化してない当事者と・・・全ての人はそのどれかでしかありません。

ワークに参加される方は、その辺りに気づいて、自分を癒したり育てたりすることのできる人たち。その人たちの成長が私にとってまた元気の素。ありがたい話です。

ワークの後のランチは炒飯卵スープ付き。

余談だけれど、このところ野菜の高騰が続いてます。雨が多かったり、台風が何回も来たりで、野菜の生育が悪いんだろうと思うけれど・・・・野菜が高いのは困るよねー、野菜の好きな私としては。

  

あまりに野菜が高いので、お弁とには冷凍のブロッコリーを。